慶応三年(1867)八月、小栗上野介忠順は三野村利左衛門に命じ、三井御用所に「江戸横浜通用札」を発行させました。日本政府が発行した正式な兌換紙幣のはじまりです。発行の名義が「銀座」になっていたことから、「江戸銀座札」とも呼ばれます。
額面十万両、準備金は関税収入
「兌換紙幣」とは、いつでも正貨(金貨・銀貨)と引き換えられることを前提に発行される紙幣のことです。この江戸銀座札の取りあつかいは、完全に三井に任されました。
幕府は額面一〇万両の金札を三井御用所に引きわたし、これを幕府の外国方関係の支払いにあてさせた
三井御用所は、その金札に対する兌換の事務をおこなう
兌換の準備金にあてられたのは、関税収入であった
外国方への支払いという、正貨が国外へ流れ出しやすい場面に紙幣を差し入れ、その裏づけを貿易から入ってくる関税収入に求める。金と紙のあいだに具体的な財源を挟み込む設計になっています。
二ヶ月後の「関八州国内限り通用金札」
この江戸銀座札から二ヶ月遅れて、もう一種類の紙幣が発行されました。「関八州国内限り通用金札」です。これも三井御用所において正貨と引き換えられましたが、こちらは三年間、兌換が認められませんでした。
発行の方法が変わっています。幕府は三井御用所を通じて、江戸の本両替商に一軒あたり三〇〇〇両の金札を交付し、そのかわりに正貨二〇〇〇両を幕府へ上納させたのです。両替商から見れば、額面三〇〇〇両の紙を受け取る代償に二〇〇〇両の正金を差し出すわけです。幕府の側は正貨を手にし、紙幣は江戸の金融の中心である本両替商の手から市中へ流れていく。坂本藤良氏はこれを「きわめて巧妙な紙幣発行法」と評しています。これらはすべて、小栗と三野村のコンビで案出され、実行されました。
国益会所の挫折から生まれた三井御用所
兌換紙幣の発行母体となった三井御用所は、もともと小栗の「国益会所」構想が形を変えたものでした。国益会所は、江戸・大坂に出入りする商品を一手に管理し、品目ごとに入札場を設け、産地の生産者には資金を貸し付ける、という国家規模の構想です。しかしこれは、開港場で〈外国人勝手売買〉の特権を持つ外国商人から猛烈な反対を受けました。外交ルートからもクレームがつき、断行すれば重大な外交問題に発展しかねない情勢となります。
小栗は国益会所の全面実現を断念しましたが、その意図を部分的に実現する形で、三野村利左衛門に三井御用所を設立させました。江戸銀座札は、この迂回路の上で生まれた紙幣です。なお国益会所の構想そのものは、明治になって、坂本龍馬の推薦で官軍の財政をあずかった三岡八郎(由利公正)の手で実行に移されました。
兵庫商社へ、そして明治へ
同じ慶応三年、小栗は大坂で兵庫商社を立ち上げています。この兵庫商社もまた、三野村と三井に命じて実施させた兌換紙幣発行の体験を取り込んでいました。小栗の計画では、出資した大坂商人二十人に金札百万両を発行させ、日本商人に金融をつけて外国商人に対抗させると同時に、兵庫開港の諸費用もそこから生み出す、というものでした。小栗は、この金札発行を三年後には政府発行に切り換えるべきだと考えていました。
紙幣の仕事の重さは、意外なところにも現れています。小栗は三井八郎右衛門に兵庫商社の頭取就任をすすめましたが、八郎右衛門は躊躇しました。辞退の理由が、〈江戸横浜御金札御引替御用〉をはじめ多数の御用を務めているから、というものだったのです。八月にいったん就任したものの、その後また辞任しています。
幕府の財政責任者としての小栗の手法を、早川珪村氏は「不換紙幣の通用はこれを禁止して、日本最初の政府による統一的な兌換紙幣発行を断行し、あえて外債を募った」とまとめています。福地桜痴は、幕府末期の財源について次のように書き残しました。
幕府が末路多事の日に当りて、如何にして其の費用の財源を得たりしかは、啻に今日より顧みて、不可思議の想を成す而已にあらず、当時に於ても、亦幕吏自から怪訝したる所なりき。而して其の経営を勉め、敢て乏を告ぐること無からしめたるは、実に小栗一人の力なりけり(『幕末政治家』)
三井御用所の紙幣発行と兵庫商社の構想は、維新後、三野村利左衛門や渋沢栄一の手で「通商会社」「為替会社」の二つに受け継がれていきます。前者は貿易、後者は金融を業としました。江戸銀座札は、その流れのいちばん最初に置かれた一枚です。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
→ 三野村利左衛門
→ 三井と小栗