JISEKI

三井を救った男の大出世

大名貸しの焦げつきで揺れた三井を、一つの策が救います。その背後にあった小栗の後ろ盾。

三井御用所の責任者に抜擢された三野村利左衛門は、慶応二年(1866)十月、三井を存亡の危機から救う一手を打ちます。その背後には、当時勘定奉行だった小栗の後ろ盾があった、と伝わっています。

ただ、この二人の関係は、幕府の要人と豪商の番頭という組み合わせから想像されるものとは、だいぶ違っていました。出会ったとき、利左衛門は油の行商人でした。

油売りと、駿河台の旗本

大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、利左衛門の前半生をこう伝えます。信州の生まれというほかは出身地も前の名も分からない。二十歳を過ぎて故郷を出ると、伊丹の酒造家に雇われて米搗きになった。一日四回の食事は、一斗枡に盛った飯の四隅に梅干を埋めたものを、同輩と分け合う。そういう暮らしでした。

ここでは身を立てられないと見切りをつけて江戸へ出て、三河町の人足宿に落ち着き、しばらく人足として働いたのち、同じ町内の油商・紀国屋の定雇いになります。仕事は油の行商で、小川町から駿河台のあたりを歩いてまわりました。小栗と知り合ったのは、この行商の道すじでした。

二千五百石の旗本と、油屋の雇われ者です。当時の常識では、言葉を交わす間柄ではありません。それでも小栗は、身分をひけらかす人ではなかったと共著は書いています。大柄で力があり、骨惜しみをしない。そういう男として利左衛門を見て、やがてその経済の才に気づいた、というのがこの本の描く出会いです。

二度の「太鼓判」

紀国屋の当主が病死し、後継者に利左衛門の名が挙がったとき、彼は駿河台へ相談に行きます。文字もろくに知らない田舎者だと固辞する利左衛門に、小栗は受けるよう勧めました。共著はこの場面を、力士の番付にたとえた会話として描いています。いまは十両になったばかりだが、十両で終わる力士ではない。紀国屋を継ぐのは前頭に上がるようなもので、どんな力士も十両から一足飛びに大関にはなれない――と。

会話そのものは著者による再現ですから、そのまま記録とは読めません。ただ、利左衛門が事あるごとに駿河台へ足を運んで小栗の判断を仰いだ、という関係の形は、複数の記述に共通しています。

小栗はもう一度、太鼓判を捺しました。江戸屈指の富豪である三井家へ、自分から利左衛門を推挙したのです。きっかけは、勘定奉行として三井に御用金を申し付けたときのやりとりでした。当主の八郎右衛門が応じきれない額だと分かると、小栗は無理押しをせずに御用を打ち切り、そのあとの雑談で、越後屋がいまだに大福帳で経営していることを聞きます。

帳合の法をあらためるべきだ――のちにいう複式簿記のことです――そのために働かせてみる気はないか、と小栗は一人の男を推しました。それが利左衛門でした。三井家の番頭であった三野村氏に見込まれて、その後継となり、紀国屋利左衛門は三野村利左衛門になります。

「江戸市中荷物御引当御貸付金」という一手

三井は、大名貸し――大名家への融資――で多額の貸し倒れを抱え、御用金の調達にも苦しんでいました。回収の見込みの薄い貸付をいつまでも抱えていては、三井そのものが立ち行かなくなりかねません。

そこで三野村が主導したのが、「江戸市中荷物御引当御貸付金」と呼ばれる大名貸し回収策でした。名目や仕組みの詳細は史料によって語られ方が異なりますが、要は幕府の権威と信用を後ろ盾にして、焦げついていた貸付金の整理・回収に道筋をつけるという策です。これによって三井は、御用金危機を乗り切ったとされています。

小栗の後ろ盾があってこそ

この策が実行に移せたのは、勘定奉行という幕府財政の要にいた小栗が、三野村を後押ししていたからだ、と伝えられています。渡り仲間あがりの一介の両替商が、これほど大がかりな金融処理を動かせたのは、幕府中枢とのつながりなしには考えにくいことでした。小栗にとっても、三井という日本有数の豪商を財政面の協力者として確保しておくことには、大きな意味があったはずです。

この一件で三井における三野村の地位は不動のものとなり、大番頭として三井家の経営を実質的に取り仕切る立場に上りつめていきます。旧幕府とのつながりが、皮肉にも、明治以後に三井が財閥として発展していく足がかりの一つになった、という見方もできます。翌年には、もう一つの大きな仕事が控えていました。→ 日本初の兌換紙幣、江戸横浜通用札

新橋の祝辞

小栗が斬られたあとも、三野村は伸びていきます。明治五年(1872)九月十二日、新橋―横浜間に日本で最初の鉄道が開通した日、民間からの来賓として祝辞を述べたのは二人だけでした。横浜代表が高島嘉右衛門、東京代表が三野村利左衛門です。

共著はここで一つの逸話を伝えています。前日、祝辞を清書した側近が、念のため漢字すべてに仮名を振っておきましょうかと尋ねた。利左衛門は、最初の一行か二行でいい、あとは要らないと答えた。当日、明治天皇の臨幸を仰いだ式で読み上げられた祝辞は、はじめのうちこそ聞き取れたものの、あとは何を言っているのか分からなかった。それでも最後まで読み通すと、彼はいきなり両手を挙げて万歳を三唱した――という話です。

米搗きから身を起こし、文字は最後まで不得手なまま、鉄道開通式で東京を代表して立った人でした。その最初の一歩を押したのは、油の行商で通りかかった駿河台の旗本でした。

遺児・国子をめぐって

共著はもう一つ、書き留めています。会津で生まれた忠順の遺児・国子は、のちに母の生家である建部家に落ち着いたが、やがて三野村家に引き取られた、というのです。利左衛門の配慮はつねに懇ろを極めた、とも書かれています。

一方で、国子を引き取ったのは大隈重信だとする伝えもあり、この二つがどう重なるのかは、まだ整理されていません。どちらであれ、処刑された幕臣の遺児が誰かの手で守られたという点は変わりません。

典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年