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会津で生まれた「小栗家唯一の血統」クニ子

父も兄も失われたなかで生まれた一人の命が、小栗家の血筋を後世に伝えることになりました。

慶応四年(明治元年)六月十四日、会津城下で一人の女児が生まれました。父・小栗忠順はすでにこの世を去り、養嗣子の又一忠道も命を落としたあとのことです。この女児が、のちに国子(クニ子)と呼ばれる人です。

「小栗家唯一の血統」

大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、この人を「小栗家唯一ノ血統」と記しています。同書によれば、母は播州林田藩主・建部内匠頭政醇の女である道子。生年は明治元年六月、会津城下。没したのは昭和四年八月四日、行年六十三でした。

この言い方は、公式の系譜に載った忠順の子が国子ひとりだったことを指しています。系譜に現れない子を伝える記録は、これとは別にあります。嘉永年間の家計簿に毎月のように出てくる「於綾」、権田で小栗一家を見た池田かよが奥方や女中とは別に数えた「おうた」、そして小山訂『小栗卍教伝』が忠順と側室ウタの子と伝える、東善寺十五代住職の小栗卍教です。

→ 家計簿の「於綾」と権田の「おうた」 / 小栗卍教 ― 側室の子と伝わる僧

道子にとっては初めての懐妊でした。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』によれば、忠順と道子が夫婦の縁に結ばれてから十五年ほどが経っており、慶応四年の戌の日に道子は岩田帯を締めています。正月五日には、忠順の母・国子が安産祈願のため水天宮へ参詣しました。生まれた子が「国子」と名づけられたのは、この祖母の名をとったものと見られています。

権田から会津まで

この子が生まれるまでの道のりは、そのまま小栗家の遭難のあとの逃避行です。大坪元治氏によれば、権田を脱出した一行は二隊に分かれました。身重の道子を中心とする隊は、中島三左衛門がみずから隊長となり、その娘さい子、塚越房五郎、萩原五平次、塚越源吉、中沢兼五郎、池田伝三郎、そして会津で戦死することになる佐藤銀十郎・塚越富五郎、道案内として吾妻入山村の山田殊平次らが従いました。もう一隊は、忠順の母・国子と又一の許婚だった娘を中心に、善光寺参りの姿に身をやつして進みます。

道子の隊は吾妻の入山から間道を抜け、山中の温泉に二泊し、秋山を経て十日町へ。三左衛門はここで塚越富五郎と中沢兼五郎を権田へ戻し、三百両の調達を命じますが、権田は閏四月二十四日に東山道鎮撫総督府の大音龍太郎が引き揚げ、二十八日に三藩の兵が撤退するという混乱のさなかで、金は調いませんでした。二人は越後へ引き返し、下野方面から会津へ直行しています。

十日町で待っていた三左衛門は調達を断念して出発し、堀之内村でもう一隊と合流。新潟で支度をととのえて蒲原郡水原へ向かいますが、この道中の難儀は言語に絶したと記されています。草刈籠に夫人を入れて担いだという話も、このときのことだと伝わります。

水原で会津藩の要人と接触がつき、国老梶原平馬の手引きで、一行は鉄御門から若松城に入りました。しかし入城して間もなく、西軍が迫るとの報せにより婦女子は城外へ避難せよとの命が出ます。中沢兼五郎の墓碑によれば、一行は城外の松川の農家に身を寄せたらしく、六月十四日、そこで女児が生まれました。危急の際には夫人の身代わりにもと連れてこられていたさい子の乳で、この子は育ちます。護衛の面々は城の危急とともに戦線へ赴き、権田から付き従ってきた佐藤銀十郎と塚越富五郎は、会津籠城中に戦死しました。

三野村利左衛門の手

明治元年九月、会津城は落ちます。一行は翌年二月まで東北にとどまり、それから江戸へ辿りつきました。中沢兼五郎の墓碑は、そのときの窮状をこう刻んでいます。

尋ねしも知辺の人一人もなく、旅金遣い果たし、家来不残お暇、女中五人我等途方……

ここで救いの手を差し伸べたのが、かつて小栗家に出入りし、忠順に引き立てられて才能を伸ばし、このとき三井の支配人となっていた三野村利左衛門でした。大坪元治氏は、この人から金を借り、いや恵んでもらって東海道を静岡まで下った、と書いています。道子と嬰児のくに子、そして母堂らは静岡に落ち着くことができました(道子はその後上京)。

なお、権田へ三百両の調達に戻った二人が手ぶらで帰ったことが後年「権田の領民は恩を忘れた」という説を生みましたが、大坪元治氏は、帰郷後の道子と権田との連絡は緊密であり、このときの脱出護衛隊に対する感状まで発見されている、と否定しています。

家の再興

成長したクニ子は婿を迎え、断たれかけた小栗家はこの一人娘を通じて続くことになりました。婿として迎えられたのは、明治のジャーナリスト矢野文雄(龍溪)の実弟にあたる貞雄で、大隈重信の尽力によるものと伝わります(→ 大隈重信とクニ子)。明治二十二年のことでした。

貞雄はのちにワシントンのある写真屋を訪ね、そこに残されていた古写真のなかから遣米使節当時の一葉を見つけ出しています。日本に持ち帰って遺族を訪ね歩き、そこに写っているのが小栗忠順であることが、はじめて確かめられました。

略系図(十一代〜十四代)

生いたちの章で紹介した十一代・十二代に、又一とクニ子の代を加えると、次のようになります。

小栗家 略系図(十一代〜十四代) 十一代・小栗又一忠高と邦子の子が、十二代・小栗上野介忠順。忠順と道子の間には実子の国子(クニ子)がおり、養嗣子として又一忠道を迎えていた。又一は慶応四年に処刑され子孫を残さず、家督は国子とその婿(矢野文雄の実弟)が継いで十四代となった。 小栗又一忠高 十一代 邦 子 小栗上野介忠順 十二代 1827-1868 建部 道子 又一 忠道 十三代(養嗣子)/慶応四年没・子孫なし 国子(クニ子) 婿養子 矢野文雄の実弟 (十四代当主) 国子・婿養子の代に相続
  • 実線 ― 記録で確認できたつながり

それ以降の世代については、存命の可能性がある方にかかわるため、本サイトでは扱いません。

典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年

→ 国子夫妻が眠る雑司ヶ谷霊園「小栗家累代之墓」 / 家族の会津脱出 / 三野村利左衛門 / 『小栗卍教伝』の系図 / 卍教のきょうだい