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側室はいたのか ― 家計簿の「於綾」と、権田の「おうた」

毎月きちんと支払われた女性と、処刑の年に権田で見られた女性。

小栗家には、嘉永年間の家計簿が残っています。『量入制出簿』と題された帳面で、二千五百石の旗本の暮らしが一文単位で分かる、めずらしい記録です。うなぎ代や猿廻しへの祝儀と並んで、この帳面には「於綾(おあや)」という女性の名前が、毎月のように出てきます。

「一金弐分 於綾分」「於綾衣類代」「於綾かご代」。本所へ出かけたときの土産物代まで、こまごまと記されています。金額は月によって一分だったり二分だったりしますが、支給そのものは途切れません。そしてこの人には給金の記載がありません。奉公人であれば身分ごとの給金欄に入るはずですから、家の内側の人として扱われていたと考えられます。

この一行が、小栗上野介に側室がいたのかという問いを、百年ちかく開いたままにしてきました。

大坪元治氏は、答えを出さなかった

「於綾」に最初に注目したのは、小栗家の系譜をまとめた大坪元治氏でした(『小栗上野介忠順家系及略年譜』昭和三十二年)。大坪氏はまず、大隈重信の後妻となった綾子――小栗家が親戚から迎えた養女です――と同じ人ではないかと考え、「別人としか思えない」と退けます。こう書きました。

別人とすれば、すでに忠順は側室を囲っていたのであろうか。

注意したいのは、大坪氏がこれを疑問形のまま置いていることです。「そんな人では断じてなかった、と今日なおムキになって忠順を弁護する者は多いが」と一度は書きながら、大坪氏は結論に踏み込みません。忠順と道子の結婚を嘉永七年前後と見たうえで、「そうなると於綾なる女性は、小栗家の何であったか、ますます解せなくなる」と続けます。

父・忠高の側室ではないか、という見方も浮かべます。年代の勘定は合う。けれども大坪氏は、「そう見ると四方八方が円満に解決する格好だが、それでは御都合主義の誹りを免れ得まい」と自分で退け、答えを出さずに筆を置きました。

後年の紹介では「大坪氏は於綾を忠順の側室と結論した」と要約されることがありますが、原文はそこまで言っていません。

坂本藤良氏は「妻・道子その人」と読んだ

三十年後、経営史家の坂本藤良氏が別の読みを示します(『小栗上野介の生涯』昭和六十二年)。坂本氏の結論は、於綾とは妻・道子その人だというものでした。根拠は三つあります。

第一に、家計簿にも日記にも、「於綾」と「於道」が同時に出てくる時期がないこと。嘉永三年正月の「一金弐分 於綾分」に始まり嘉永七年九月で於綾は消え、次の帳面(安政五年正月)からは「於道」だけが同じ位置に現れます。第二に、金額が一、二分から一両一分へ跳ね上がるのは、その間に父・忠高が没して忠順が家督を継いだためと説明がつくこと。第三に、於綾が出かける先が本所と明神下――どちらも妻の実家である建部家の屋敷があった場所だということです。坂本氏は「側室を夫人の実家に行かせるのは、どうみても不自然である」と書いています。

「支払いが止まった」とは言えない

ただし、於綾が嘉永七年九月で消えることを「側室を整理した」と読むのは慎重であるべきです。帳面の第一冊そのものが、その月で終わっているからです。次の冊は安政五年に飛び、あいだの二年半は空白になっています。支給が止まったのか、記録のほうが途切れただけなのかは、この帳簿からは区別できません。

ちなみに安政五年の帳面には、「於綾向嶋江相越候節茶代」という一件だけが、ぽつんと残っています。

権田にいた「おうた」

そして坂本氏は、於綾=道子と論じたすぐあとに、こう書き添えました。

しかし、だからといって、小栗に側室がいなかった、と断定するつもりはまったくない。

坂本氏が候補として名前を挙げたのは、「おうた」という女性です。出どころは、権田村の池田かよの聞き書きでした。かよは小栗家の歩兵・池田民吉の娘で、慶応四年の春、十七歳のときに東善寺へ手伝いに通っていた人です。昭和十八年秋、九十一歳のかよから大坪元治氏が聞き取り、のちに活字になりました。

奥方は背の高い、細面のすばらしい美しい人、役者のお姫様そっくり、あとはおうたという二十二、三のと、女中が三人程

この短い一文には、はっきりしたことが二つあります。おうたと呼ばれる女性がそこにいたこと。そして女中三人とは別に数えられていることです。十七歳のかよの目に、奥方でも女中でもない位置にいる人として映った――目撃した人の言葉が伝えているのは、そこまでです。かよ自身も「どうもはっきり思い出せない」と断りを入れており、この聞き書きが取られたのは出来事から七十五年後、かよ九十一歳のときでした。

坂本氏はこの名前を挙げたうえで、「あるいは、と思われる女性もいないではないが、このあたりの考証は、本書の目的をこえるので、別の機会を待ちたい」と書いています。於綾を道子と読んだ坂本氏も、小栗に側室がいた可能性そのものは開いたまま残し、その候補としておうたの名を書き留めたのです。

ここまでで確かめられるのは、二つのことです。嘉永年間の家計簿に、給金を受け取らない「於綾」という女性が毎月あらわれること。そして慶応四年春の権田に、「おうた」と呼ばれる二十二、三の女性が、奥方とも女中とも別に数えられていたこと。この二人がそれぞれ誰で、どういう立場だったのかは、まだ書かれていません。

ただし、小栗に側室はいなかった、と資料にもとづいて断定した研究者は一人もいません。大坪元治氏は問いを疑問形のまま置き、坂本藤良氏は「断定するつもりはまったくない」と明言したうえで、おうたの名を残しました。家計簿と聞き書きは、暮らしの数字とともに、この開かれたままの問いを今日まで運んできました。

典拠:『量入制出簿』(群馬県史料集第七巻『小栗日記』所収)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年、二二〜二七頁/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、昭和六十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年、三四六〜三四七頁。引用は原文の表記にしたがいました。

→ 日記が眠っていた八十年 / 雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」

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