慶応四年(1868)三月十四日、権田村に移り住んで二週間の小栗家で、妻・道子の「着帯の儀」――いわゆる帯祝い――が行われました。その日の『小栗日記』には、こう記されています。
一、於道事今日吉辰ニ付着帯為致候 尤、真彦母まき着帯之義取扱候ニ付、同人江為祝儀百疋遣ス
道子のこと、今日は吉辰にあたるので着帯いたさせた。儀式は真彦の母・まきが取り扱ったので、その者へ祝儀として百疋を遣わした――という意味です。日記の日付欄には「十四日 戌 天気能」とあります。十二支の戌の日。着帯を戌の日に行うのは、犬が多産で安産であることにあやかる習わしです。日記は、この日が暦のうえでもきちんと選ばれた日であったことを裏づけています。道子は妊娠五か月でした。
儀式を取り扱った「まき」
岩田帯を締める役をつとめた「真彦母まき」とは、小栗家の用人・塚本真彦の母です。真彦は遣米使節にも随行した股肱の家臣で、一家六人そろって権田村へ移り住んでいました。江戸を発つときの行列は、小栗一家五人、塚本一家七人のほか、荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺多三郎・沓掛藤五郎・多田金之助・武笠銀介ら家臣と小者・女中・人夫を合わせて三十名近く。その一行のなかで、年長の女性としてこの役を担ったのがまきでした。
なお、着帯の儀が長井の酒造家で行われたとする説もありますが、日記の記述から、儀式は仮宿の東善寺で営まれたと考えられています。
まきのその後は痛ましいものです。この二か月足らずのち、小栗が捕らえられる前後の権田村脱出のさなかに、子とともに自害して果てています。墓石には「みつ」と刻まれてきましたが、それは誤りで、正しくは「まき」であることが、この日記の一行によって分かりました。祝いの日の記録が、のちに人の名を取り戻すことになったわけです。
暴徒との戦いから十日後
小栗一家が権田村に着いたのは三月一日。その三日後の三月四日、東善寺は数千の暴徒に襲われています。小栗は又一とともに家臣・歩兵、村内の猟師や強壮の者百人余りを率い、これを五手に分けて応戦しました。上宿と鎮守前に火を放たれながらも撃退し、この一件での相手側の戦死者は二十一名にのぼったと日記は記します。帯祝いは、その騒動からわずか十日後の出来事でした。
同じ三月十四日の日記には、ほかにこう書かれています。母の国子と養女の鉞子が鎮守へ参詣したこと。小栗自身は昼過ぎから観音山の普請場へ見回りに出たこと。家臣の荒川祐蔵を、江戸から回ってきた荷物の引き取りのため倉ヶ野宿まで遣わしたこと。
前後の日々も同じ調子です。観音山は四百坪の平地にする計画で、村方の黒鍬に申し付け、代金三十両ほどの見積もりで先金五両を渡している。水引道の普請には手附金三両。住居向きの普請の絵図面を大工たちに渡し、木の積算を出すよう命じている。倉ヶ野宿からは荷物が四十箇届いた。屋敷を建て、用水を引き、腰を据えて暮らしを組み立てていく日々のただなかに、帯祝いの一行があります。
一方で、同じころ江戸から届いた飛脚の用状は、官軍の東下で江戸表が殊のほか混乱していること、恭順を尽くされるので一同過激の処置をしてはならぬとの達しが出ていることを伝えていました。慶応四年三月は、江戸城が無血開城されるかどうかの瀬戸際にあたります。国の行く末が定まらないただなかで、家庭では新しい命を迎える準備が静かに進められていました。
結婚から十五年あまりを経ての、道子にとって初めての懐妊だったとされます。この子が、閏四月六日に小栗が水沼河原で最期を迎えたのち、六月に会津で生まれるクニ子です。着帯の儀からその日までの短い期間、権田村での暮らしがどのようなものであったかを知る手がかりは、日記のこうした一行一行しかありません。
この十五年のあいだに生まれた子を伝える記録が、公式の系譜とは別にあります。小山訂『小栗卍教伝』は、安政四年四月十日に江戸駿河台で生まれた菊之助を、忠順と側室ウタの子と伝えます。のちの東善寺十五代住職・小栗卍教です。嘉永三年正月から始まる家計簿に毎月あらわれる「於綾」、権田で池田かよが奥方や女中とは別に数えた「おうた」も、同じ家の中の話として残りました。
→ 家計簿の「於綾」と権田の「おうた」 / 小栗卍教 ― 側室の子と伝わる僧
歴史の大きな転換点に立ち会った人物の生涯を追うとき、私たちはどうしてもその公的な事績にばかり目を向けがちです。けれども、暦を見て戌の日を選び、家臣の母に祝儀を渡したという記述は、その人が同時に一人の夫であり、家族の暮らしを気にかける生活者でもあったことを、静かに思い出させてくれます。
典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻(慶応四年三月十四日条)/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/『倉渕村誌』
→ 権田村での屋敷普請と学校構想 / 会津で生まれたクニ子 / 妻・道子の避難行 / 『小栗卍教伝』の系図