慶応三年(一八六七年)十二月晦日。この日の『小栗日記』には、小栗家が家来たちに配った歳暮の祝儀が、受け取る側の格ごとに書き分けて記されています。
一 家来共一同へ歳暮之祝儀、左之通遣ス
金三百疋ヅツ 祐左衛門・真彦
八丈島一反 好三・堅太夫
別段、真彦へ五百文(右へ勝手向取扱并普請等骨折ニ付)
金弐百疋ヅツ 給人共へ
金百疋ヅツ 近習・中小姓共へ
金百疋ヅツ 女子共へ
名前で書かれた二人
金額の刻みは四段です。最上位の三百疋は、祐左衛門と真彦という二人だけが名指しで受け取っています。
祐左衛門は武笠祐左衛門。父・忠高の代から仕えた小栗家の筆頭用人で、江戸屋敷の留守居をつとめた人物です。真彦は塚本真彦(勉)。夫人が建部家から小栗家へ嫁いでくるとき、小栗が目をつけて夫人付きの侍としてもらい受けた小姓で、のちに遣米使節の随行員となり、外国語をよくして最後まで側近として働きました。二人は、家政の要と、主人の右腕です。
好三と堅太夫の二人には、金ではなく八丈島一反という反物が渡されています。祝儀は現金一本ではなく、相手によって品物でも渡されていました。
注目したいのが、真彦への「別段五百文」です。理由が添えてあります。「勝手向取扱并普請等骨折ニ付」——家計の取りまわしと普請の仕事で骨を折ったから。格に応じた定額の上に、その年の働きに対する上乗せが載っているわけです。定額と加給の二階建てになっている点で、これは単なる序列の確認ではありません。
給人には二百疋、近習・中小姓には百疋、女中たちにも同じく百疋。『小栗日記』の別の年の記載には「家来共定式歳暮」という書きかたも見え、この配分が毎年の決まりごとであったことがうかがえます。
払った日に、受け取ってもいる
同じ十二月晦日の日記には、もう一つの金の記事があります。
一 自分儀、金座掛為手当、白銀三拾枚被下候旨、御書付を以仰被渡候
小栗自身も、金座掛の手当として白銀三十枚を下されたことを御書付で申し渡されています。家来に歳暮を配ったその日に、主人もまた幕府から年末の手当を受け取っていた。祝儀を配る側と受け取る側が、同じ日の同じ紙の上に並んでいます。
この日の日記はほかに、例刻に登城して七ツ半時過ぎに退出したこと、又一(養嗣子・忠道)の屯所へ出向いたこと、松平権十郎・都筑駿河守・戸田悟水・安藤霞村・古賀筑後守といった来客に会ったこと、小栗半右衛門から金二両の返済があったことを記し、最後をこう結んでいます。
一 今日之祝事、如例年致ス
「例年の如く」の年末
この「例年の如く」が書かれたのが、どういう年末だったかを押さえておく必要があります。慶応三年十月二十日には大政奉還の報が江戸に届き、城中の会議で忠順は悲憤して直ちに上京し諫言することを主張しましたが、容れられませんでした。十二月九日には王政復古の大号令。十二月二十五日、忠順がかねて強硬に主張していた薩摩藩邸の焼打が決行されています。歳暮の祝儀が配られたのは、その五日後です。
翌年の日記は、慶応四年正月元日から閏四月二日まで、百二十日分で途切れます。その閏四月、小栗は権田で斬られ、又一忠道と塚本真彦は高崎で斬られました。三百疋を受け取った二人のうち一人は、四か月後に主家の嗣子に付き添って死ぬことになります。
『小栗日記』の慶応三年分は、正月朔日から十二月晦日まで、三百五十四日間を一日も空けずに書き継いだものです。その最後の一日に、誰にいくら渡したかが、名前と理由まで添えて残されました。
典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年
→ フランス軍事顧問の足しげい訪問 → 『小栗日記』という記録 → 小栗又一忠道