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フランス軍事顧問の足しげい訪問

洋式軍制改革を支えた交流は、私邸にも及んでいました。

慶応三年(1867)の『小栗日記』には、フランス陸軍士官シャノアン(日記の表記は「シャノワン」)が、小栗の私邸をたびたび訪れていたことが記されています。一年のうちに何度も名が現れる、数少ない外国人客の一人です。

シャノアンは何のために日本にいたのか

シャノアンの来日は、小栗の計画から出たものでした。慶応二年(1866)九月三十日、在仏日本領事フリューリ・エラールが幕府を代表して、フランス軍士官シャノアンらを招聘する契約を結びます。目的は、歩兵・騎兵・砲兵からなる三兵伝習の教官としてでした。

それまでの幕府陸軍は、三兵制度の採用を決めながら実態が伴っていませんでした。騎兵といえば馬術をやっているだけ、砲兵と歩兵は訳本『三兵タクチーキ』と首っぴきで当て推量の訓練をしている――というのが、小栗と浅野美作守氏祐が栗本鋤雲に語った現状認識です。本物の教官を外国から迎えなければものの役に立たない、という判断が、シャノアンら顧問団の招聘につながりました。

契約から二か月足らずの慶応二年十一月十九日、横浜の太田陣屋で陸軍伝習所が開かれ、歩兵・騎兵・砲兵の士官養成が始まります。日本における近世陸軍の正式な訓練の始まりでした。慶応三年六月には伝習所が江戸の陸軍所(講武所)に移され、越中島と駒場野が練兵場にあてられます。小栗の養嗣子・又一は、この訓練でシャノアンらの直接指導を受け、幕府歩兵指図役頭取をつとめました。

なお、小栗自身の役職は、この時期すでに歩兵奉行ではありません。慶応二年八月から海軍奉行並を兼ね、勘定奉行を主務とし、慶応三年十二月には陸軍奉行並を兼職しています。軍制改革を動かしていたのは、現場の奉行としてではなく、財政と軍事の双方を握る立場からでした。

日記に残る来訪の記録

『小栗日記』慶応三年の記事から、シャノアンの名の出るところを拾うと、次のようになります。

  • 五月廿二日 「シャノワン来ル逢申候」

  • 七月廿二日 「シャノワン・飯高平五郎来ル逢申候」

  • 九月四日 「夕刻シャノワン附添細谷安太郎来ル」

  • 九月廿四日 「シャノワンフリン子来ル逢申候」

  • 十月三日 「シャノワン来ル、逢申候」

  • 十月四日 「シャノワン・フリュネー来ル逢申候」

  • 十月八日 「シャノワン来ル」

  • 十月九日 「シャノワン来ル」

小栗の日記は、来客について「来ル」とだけ書く場合と、「逢申候」と書き添える場合を使い分けています。後者は、本人が出て応対したという意味です。十月三日、四日、八日、九日と、四日間のうちに四度も名が現れる時期があり、なかでも十月三日と四日は連日でした。

十月四日に同行している「フリュネー」は、陸軍伝習の教官として来日したブリューネのことと考えられます。のちに慶応三年十二月二十五日の薩摩藩邸焼打ちで、幕府歩兵・砲兵の作戦計画を立てたのがこの人物でした。訪問は、単なる儀礼ではなく実務の打ち合わせを含むものだったとみるのが自然です。

付き添いの日本人の名も記されています。七月の飯高平五郎、九月の細谷安太郎。フランス語で直接やりとりできない場面を、こうした人々が支えていました。

往来は一方通行ではありません。十月五日には、小栗自身が「朝五ッ半時より三番原教師館へ相越」、そのまま登城しています。顧問団の側を訪ねてから江戸城に出仕する、という一日です。

日記という記録の性格

『小栗日記』を発見・翻刻した本多夏彦氏は、この日記の特徴として、フランス公使や領事の小栗私邸来訪をはじめ、大官名士の頻繁な往来が詳しく記されている点を挙げています。一方で、日記そのものは感情をいっさい書かない性格のもので、来客も「誰が来た、逢った」としか書かれません。何を話したかは残っていないのです。

それでも、慶応三年という年――兵賦金制度への悪評を一身に浴び、大政奉還の報に接して悲憤した年――の合間に、フランス人武官が繰り返し私邸を訪れていたという事実そのものが、洋式陸軍改革が机上の計画ではなく、日々の往来を伴う実務であったことを伝えています。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』

→ 歩兵奉行の洋式陸軍改革

→ フランス語学所の開校