STORIES

地震の借金、10年がかりの返済

地震という災害の影響は、家計簿の上に長く尾を引いていました。

小栗家の家計簿には、何年にもわたって同じ文句が現れます。「地震ニ付拝借金」――地震の被害に対して幕府から借り受けた復興資金の、返済の記録です。一度きりの災害が、家計の上では何年分もの支出として続いていく様子が、そのまま残されています。

安政二年、当主になった年

安政二年(1855)は、小栗家にとって代替わりの年でした。七月二十八日、父・忠高が新潟奉行の役宅で病没します。享年五十八。忠順が跡目を相続し、当主代々の通称である「又一」と改名したのは、同年十月二十二日のことでした。

坂本藤良氏は、この年を境に家計簿の金額の桁が変わることに注目しています。たとえば妻への小遣いは、それまでの一分・二分から一挙に一両一分へ、二・五倍から五倍に跳ね上がる。物価上昇もあろうが、父の死によって忠順が完全に一家をとりしきることになったためだろう、というのが氏の見立てです。

そして同じ安政年間、各地で大きな地震が相次ぎました。江戸の武家屋敷も無事では済みません。被害を受けた家には、幕府から拝借金という形で資金が貸し付けられます。当主になったばかりの忠順が背負うことになったのが、この借金でした。

五年分の帳面に、同じ一行

『小栗日記』に収められた小栗家の家計簿は、四冊に分かれています。『量入制出簿』(嘉永三年正月より安政二年五月まで)、『勝手方勘定帳』(安政五年正月より安政六年十二月まで)、『勘定帳』(安政七年正月より文久元年十二月まで)、そして文久二年正月より文久三年十二月までの帳面。安政二年五月から安政五年正月までの分は欠けており、返済がいつ始まったのかを記した帳面は、残っていません。しかし、残っている帳面には、年を追って同じ項目が並びます。

  • 安政五年(午年) 「地震ニ付拝借金 当午年納金」

  • 安政六年 「地震拝借御返納金」

  • 安政七年(万延元年) 「地震之節拝借同断納」

  • 文久元年 「地震拝借上納」「御金蔵納」

  • 文久二年 「地震拝借金 御金蔵納」

読み取れることが二つあります。ひとつは納め先で、いずれも御金蔵――幕府の金蔵です。もうひとつは納め方で、安政五年の記載に「当午年納金」とあるとおり、その年の分として区切って納めている。つまり総額をまとめて返すのではなく、年ごとに割り当てられた額を納めていく年賦でした。帳面が残っている範囲だけで五年分、途切れることなく続いています。

もう一つの借金から、仕組みが見える

拝借金がどういう性質の金だったかは、別の記録がよく示しています。慶応三年(1867)六月二十九日の『小栗日記』に、こうあります。

去ル子年拝借之馬喰町御貸附金五百両十ヶ年賦之口、元利とも三百六拾七両弐分、此節一時返納ニ仕候ニ付、真彦為持馬喰町江遣し証文引替差越ス

子年――元治元年に、馬喰町の御貸附金から五百両を十ヶ年賦で拝借していた。その残りの元利あわせて三百六十七両二分を、この時まとめて返納した。そこで家臣の塚本真彦に持たせて馬喰町へ遣わし、証文を引き替えさせた――という一件です。

元金と利息を合わせて年賦で返し、繰り上げて返済すれば証文を取り替える。地震の拝借金も、同じ仕組みの上を流れていた金でした。無利子や低利の扱いを受けることはあっても、借金は借金であり、当主が代わろうと役目が変わろうと、期限どおりに御金蔵へ納めなければならない。安政五年から文久二年まで、同じ一行が毎年帳面に書き込まれ続けたのは、そのためです。

この返済の記録が並ぶのは、万延元年の遣米使節で手当金が入り、家計が大きく潤う年とちょうど重なっています。大きな収入があった年にも、地震の借金は同じように御金蔵へ納められていました。帳面を通して見える小栗家の経済は、そういう浮き沈みと、変わらない義務とで出来ています。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻(家計簿および慶応三年日記)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年

→ 遣米使節手当で大黒字になった年の家計簿 / 父・忠高の死と家督相続