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父・忠高の死と家督相続

安政二年(1855)、父・忠高の死をうけて家督を相続。満二十八歳で、小栗家十二代の当主となりました。

安政二年(1855)は、忠順にとって吉凶さまざまのことの多い年でした。五月二十一日には江戸城吹上御苑の馬揃えで、将軍・家定の前で早乗りの妙技を披露して賞せられています。その同じ年の夏、任地の新潟で父・忠高が病に倒れました。

父・忠高という人

忠高は、もともと小栗家の人ではありません。旗本・中川飛騨守忠英の四男です。小栗家十代当主の忠清が文化十年(1813)に病床に伏したものの嫡男がなく、隣家の中川家の四男であった忠高がまじめな好青年であるのに目をつけて養子に迎え、長女のくにと娶わせました。忠高が家督を継いだのは、同じ年の十月です。皮肉なことに、嫡男のなかった忠清は、その直後に男子に恵まれました。この子は忠高の弟として届けられています。

忠高は文政九年(1826)に御小姓組に召し出され、その後は着実に昇進しました。使番を経て天保十三年に西丸目付、十二月に布衣。弘化二年(1845)七月、御留守居番に昇進。弘化四年十月には御持弓頭となり、そして嘉永七年(1854)、新潟奉行に任じられます。忠順が生まれたとき、忠高は二十九歳、母くには十七歳でした。

新潟での死

奉行という役職は、任地に赴いて実務にあたる勤めです。忠高もまた江戸を離れ、越後の新潟で職務にあたっていました。

安政二年七月十八日、父の病を見舞うため、忠順は江戸を発ち新潟へ向かいます。七月二十八日、忠高は新潟の役宅で病没しました。享年五十八。新潟奉行に就いてから、わずか一年ほどのことでした。法名を忠高院といいます。

遺骨は新潟の寺町にある法音寺に葬り、江戸の牛込横寺町にある小栗家の菩提寺・保善寺に分骨されました。法音寺の墓が建立されたのは翌安政三年二月で、佐賀出身の学者・枝吉神陽の碑文が刻まれています。

家督相続

父の死から三か月後、同年十月二十二日、忠順は小栗家の家督を相続しました。当主が代々通称としてきた「又一」の名を襲名し、十二代当主となります。このとき忠順は満二十八歳でした。

家督相続は、旗本の家にとって単なる代替わり以上の意味を持ちます。禄高や役目を引き継ぐと同時に、当主として幕府に対する責任も引き継ぐことになるからです。その変化は、忠順自身がつけていた家計簿にはっきり表れました。それまで一分、二分という単位だった支出の記載が、安政二年十月を境に一両一分へと跳ね上がっています。物価の上昇もありますが、二千五百石の旗本家を一人でとりしきる立場になったことが大きい、と見られています。

もうひとつ、家計簿から読み取れることがあります。忠順は家督相続後、江戸の保善寺への寄付はもちろん、遠い新潟の法音寺にも、毎年盆と暮に欠かさず「附届」を続けていました。信仰の篤さか、亡き父への孝養か――『日記』も『家計簿』も、その理由を語りません。『日記』はほとんど毎日二、三行、客観的な事実だけを淡々と記す、これ以上圧縮できないほど簡潔なものだからです。

この供養は、生涯続きました。十三年後、鳥羽伏見の敗報が江戸に届き、幕府が崩れていく慶応四年の正月にあっても、忠高の命日には用人筆頭の武笠祐左衛門が牛込横寺町の保善寺へ代拝に出ています。当主が登城で身動きの取れない日でも、供養だけは欠かさなかったということです。

ここから、世界へ

誕生から数えて二十八年。私塾での学問、武芸の修行、建部家での議論、御番入り、道子との結婚――ここまで紹介してきた歩みは、すべてこの家督相続の年までの出来事です。家督を継いでから二年後の安政四年正月には御使番、十二月に布衣(従六位相当。従五位下以上は朝廷に奏するため、幕府の命による最上位にあたります)を仰せつかり、四年後の安政六年(1859)、忠順は目付に任じられ、その翌日には日米修好通商条約の批准書交換にあたる遣米使節への随行を命じられます。渡米、そして日本人として初めての世界一周へと、忠順の人生は大きく動き出します。

典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年

→ 幕臣としての台頭・遣米使節 / 遣米使節への抜擢の背景