安政六年(1859)九月十二日、小栗忠順は本丸御目付に任じられました。外国掛で、定員十名の員外という扱いです。そして翌十三日、江戸城芙蓉間に召され、大老・井伊掃部頭直弼および老中列座のもと、阿部下総守からこう言いわたされます。
「亜墨利加国へ本条約取替(批准)のため差しつかわされるべく候間、用意致すべし」
目付就任からわずか一日での大任でした。もっとも、任命の日付が前日というのは、使節にするための前提として目付の肩書を与えたと見るのが自然です。この日、同じ席で命を受けたのは次の三人でした。
正使 新見豊前守正興(外国奉行兼神奈川奉行) 三十九歳
副使 村垣淡路守範正(外国奉行兼神奈川奉行兼箱館奉行兼勘定奉行) 四十七歳
監察 小栗豊後守忠順(目付) 三十二歳
忠順は、他の二人に比べてかなりの抜擢と見てよい人事でした。同年十一月、従五位下・豊後守に叙任され、以後「小栗豊後守」の名で外交の場に立ちます。十二月一日には西丸白書院で将軍・家茂に謁見して正式に渡米を命じられ、金十枚・時服・羽織を下賜されました。十二月二十四日には、正使・副使、および咸臨丸で別途同行する木村摂津守喜毅とともに神奈川へ赴き、ポーハタン号に米提督を訪ねて打ち合わせを行っています。
最初の人選は、違う顔ぶれだった
批准書の交換をワシントンで行うことは、岩瀬忠震とハリスの話し合いで決まり、条約第十四条に明記されていました。そして使節の人選は当初、水野忠徳(外国奉行)、永井尚志(同)、岩瀬忠震(目付)らに内定していたのです。安政五年七月六日には、井伊大老列座のもとで阿部下総守から渡米の準備が言いわたされてもいました。
ところが井伊は、「異国かぶれ」した者と、将軍継嗣問題で水戸派に近い者を避けようとします。まず忠震が更迭され、次いで尚志も外国奉行を解かれ、さらにロシア人の殺傷事件で忠徳が引責辞職したため、使節団はまったく新しく組織し直さなければならなくなりました。条約締結に関わっていない者を行かせる――これが井伊の立てた前提条件でした。
村垣は条件に適合したうえ、たまたまその時点で外国奉行だった。新見は出発の半年前、安政六年七月になって外国奉行に任命されており、御小姓出身で顔だちが秀麗な人物でした。遣隋使のころから、日本は外国へ送る使節の顔だちを気にする傾向があったとも指摘されます。
なぜ忠順だったのか
小栗の選任理由については、古くから諸説が唱えられてきました。蜷川新は『維新前後の政争と小栗上野介の死』でこう述べています。
「新見は容貌秀麗にして、御小姓出身であり、礼容正しく応接度あり、其の押し出しの堂々たる所より特に正使に選ばれ、村垣は文筆に堪能なる所より副使に選ばれたと伝へられる。而して独り小栗に至つては、其の才能胆力の非凡なる所より……井伊大老に嘱目抜擢せられた」
大坪元治氏の『小栗上野介忠順家系及略年譜』も、忠順の米国差遣は井伊直弼の抜擢によるもので、その傑材に着目し、将来幕府の枢要な人物となるべきことを察して命じたものと伝えられる、と記しています。海音寺潮五郎氏のように容貌説に反対する論者もいれば、幕府は人選を本心では重く考えていなかったとする見方もあり、決め手となる史料はありません。ただ、容貌風采の立派な新見、老成の域に入った能吏の村垣、この二人に配するに、主義主張が明快で行動力のある若い忠順を選んだことには、やはり理由があったと考えられています。剣術・馬術・砲術に長じていたことも、日本人の実力を外国人に認識させたいと願う井伊にとっては要因になったかもしれません。
なお、使節団が持参する「国書」を英文にするか日本文にするかで議論は紛糾しましたが、これも井伊直弼の裁断で日本文と決まっています。
万一に備えた養子縁組
渡米という大役を前に、小栗は身辺も整えました。当時の太平洋横断は往復で半年から一年におよぶ長い航海で、途中の遭難や現地での不測の事態も現実の危険でした。もし自分の身に万一のことがあれば、跡継ぎのないまま小栗家が断絶してしまう。それを避けるため、旗本・日下家から鉞子を養女に迎え、旗本駒井甲斐守の次男である忠道(又一)を、鉞の将来の夫として二人で小栗家を嗣ぐべく養嗣子に迎えています。二千五百石の旗本家の当主として、公務に出る前にまず家の存続を確かなものにしておく――当時の武家らしい慎重さがうかがえます。
この一年余りの渡米経験が、帰国後の小栗を外国奉行、さらには勘定奉行へと押し上げる出発点になりました。もっとも、抜擢した当人と再び相まみえることはありませんでした。忠順が帰朝したとき、井伊大老はすでに桜田門外で暗殺されていたからです。
典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』