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品川出帆、総勢77人の船出

万延元年正月十八日、使節団総勢七十七人が品川を出帆。本隊が乗ったポーハタン号と、同行した咸臨丸を紹介します。

安政七年(万延元年・1860)一月十八日、使節団はまず築地の軍艦操練所に集合し、その午後、品川沖に停泊していた迎艦ポーハタン号へ乗り込みました。正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順を筆頭に、通訳や従者まで加えて総計七十七人という大部隊です。アメリカ側は日本の使節をもっと少人数だと思っていたらしく、この数には驚いたと伝わります。

出発にあたっては、形の上でも二つの「初めて」がありました。三使節が持参する批准書には、将軍の印と調印にあたった役人の署名に続けて、末尾に「大日本帝国」の文字が記されています。この使節が日本を出るのにあわせて国旗が正式に定められました。今日の日章旗です。

大砲を降ろして客室にした船

一行を乗せたアメリカ海軍の軍艦ポーハタン号は、二四一五トン。船体の両側に大きな水車を備えた外輪船で、図体は大きいものの、船としてはすでに旧式の形式でした。もともと積んでいた大砲のうち四門を降ろし、その空間を使節一行の客室に改造したうえで、日本まで迎えに来ています。

そして航海は、出港からいきなり荒れました。森田岡太郎清行の記録に残る数日を並べると、こうです。

  • 一月二十三日 烈風暴雨

  • 一月二十四日 烈風高波。水夫一人、帆檣から落下

  • 一月二十五日 烈風暴雨。森田清行転倒

  • 一月二十七日 船室水難。船の傾斜三五度。ボート、漬物桶流失

傾斜三五度という数字は、乗っていた者の恐怖をそのまま伝えます。もっとも、この嵐には思わぬ副作用もありました。流された漬物桶のおかげで、アメリカ水兵たちは異臭の悩みから解放されたのです。

会計責任者・森田清行という人

いま引いた記録を書いた森田岡太郎清行は、勘定組頭から抜擢されて一行に加わりました。序列は咸臨丸の勝麟太郎より上で、小栗に万一のことがあったときは、代わって使節の一員になることを命じられていました。経済と会計の専門家で、渡米中は小栗の片腕として動きます。

彼が残した『亜行日記』『亜米利加航海出入簿』は、会計責任者らしい几帳面な記録で、使節団の内側を知る一級の史料です。さらに森田は、公表できない事柄を書きつける極秘の手帳を別に持っていました。縦一〇センチ、横一六センチの小さな手帳で、彼自身は『無題手控』あるいは『別冊秘帳』と呼んでいます。小栗と森田の意見が対立したときの議論の中身や、カス国務長官と小栗とのやりとりは、こちらに書かれました。

もう一隻、咸臨丸の同行

この渡航には、もう一隻の艦が同行しています。幕府の軍艦咸臨丸です。木村喜毅(摂津守)が司令官に任じられたのは安政六年十一月二十四日で、その四日後に軍艦奉行へ昇進し、従五位・摂津守に任ぜられました。乗組員の人選は木村に任され、勝麟太郎が筆頭に選ばれ、通訳のなかにジョン万次郎、木村の従者として福澤諭吉が指名されています。日本人総勢九六人、ほかにアメリカ海軍将兵一一人という陣容でした。

幕府軍艦・咸臨丸の写真
軍艦咸臨丸。出典:文倉平次郎編『幕末軍艦咸臨丸』1938年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1921104)

咸臨丸は、木村の日記『奉使米利堅紀行』に「百馬力の捻仕掛蒸気船」と記されています。「捻仕掛」は「水搔捻付」、つまりスクリュー付きのこと。オランダのキンデルダイクにあるフォップ・スミット造船所へ幕府が注文して造らせた船で、原名は「ヤッパン号」といいました。ポーハタン号より小さいけれども、形式としてはこちらのほうが新しい艦です。

木村の表向きの任務は、使節団が無事にワシントンへ着いたかを見とどけること、そして三使節に万一のことが起きた場合に代わりを務めることでした。ただし非公式には二つの目的があったといいます。ひとつは日本の軍艦を太平洋横断させることの内外へのPR効果。もうひとつは、航海中にできるだけ無人島を発見し、うまくいけば日本領にしてしまうという、アメリカにも隠した極秘命令です。

なお、咸臨丸の派遣を提案したのは勝海舟だと語られがちですが、坂本藤良氏は、別船派遣を強く要望したのは水野・永井・岩瀬らであったと指摘しています。日本人の操縦する別船を仕立てることが諸外国への体面と海軍育成のために望ましい、という上申は、条約調印の翌々月にあたる安政五年八月にすでに出されていました。

最初の寄港地で

荒天を抜けた一行は、「太平海、サントウキス島の内、オアホ島、ホナロロ港」――ハワイのオアフ島ホノルルに上陸します。ここで小栗がまっさきに見学に行ったのは、新聞社でした。印刷機の前に立った小栗は、その速さに驚いています。森田清行は『亜行日記』にこう書きとめました。

「機関の車をフレスと云ひ、摺立迅速なること一日におよそ千六百枚づつ」

批准書交換という使命を担ってアメリカへ渡ったのは、あくまでポーハタン号に乗った新見・村垣・小栗ら本隊です。咸臨丸はサンフランシスコまでの別行動で、そこから日本へ引き返しました。三十四歳の小栗にとって、これほど長く江戸を離れるのは初めてのことでした。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(森田清行『亜行日記』、木村喜毅『奉使米利堅紀行』の引用を含む)

→ 咸臨丸の「神話」を検証する → ハワイ寄港 → 木村摂津守喜毅