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ハワイ王国での表敬訪問

二月十四日、独立国だったハワイ王国に寄港。国王夫妻への謁見は、使節団にとって最初の異国宮廷体験でした。

安政七年(万延元年・1860)一月十八日、使節一行は築地の軍艦操練所に集合し、その午後、品川沖に停泊するアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込みました。通訳や従者を加えた総勢は七十七人(八十一人と記す資料もあります)。アメリカ側は少人数の使節を予想していたため、この人数に驚いたといいます。

太平洋の航海は荒れました。一月二十三日から二十七日にかけては烈風暴雨が続き、水夫一人が帆檣から落下し、船室が浸水し、船の傾斜は三十五度に達し、ボートと漬物桶が流失しています。もっともこの漬物桶の流失は、アメリカ水兵たちを異臭の悩みから解放したと坂本藤良氏は書いています。

「島の酋長も同じこと」と考えていた一行

二月十四日、ポーハタン号はハワイ王国のホノルルに入港します。日本側の記録は、ここを「太平海、サントウキス島の内、オアホ島、ホナロロ港」と書きました。船の修理を兼ねて、七日ほど滞留しています。当時のホノルルについて、随行員の記録は「市中人屋千軒余、諸国より商人来り渡世致居る」「三四年以来開けたる島」と記し、茄子や瓜、西瓜を食べたこと、暖かい国であったことを書き留めました。

国王への謁見は、日本側から求めたものではありませんでした。ポーハタン号の指揮官から、国王が日本使節との対面を望んでいると伝えられたのです。副使・村垣淡路守の『航海日記』二月十八日の条には、その経緯がそのまま残っています。

此島の王、日本使節に對面の事を乞ひけるよし、ティロル言出ししが、親しき國にもあらねば程能く斷りけれども、各國かかる禮にて斷り云ふは禮を失ふよしなれば、領掌して午後二時と約しけるまま……(國王とはいへど島の酋長も同じことなれば旅衣のままにて行くこととする)

一度は断ろうとし、諸外国ではそれが非礼にあたると説かれてようやく承諾し、しかも正装せず旅装のまま出かけることにした――というのが実際のところでした。ところがハワイ側は一行を国賓として扱い、儀装馬車で宮殿へ導きます。国王は金の肩章をつけ、王妃エンマは両肩を出し、首に玉の飾りをつけて臨みました。

国王の言葉は「かたじけない、碇泊中いろいろ不自由だろう」というものでした。これをアメリカ人が英語に通訳し、それを通詞・名村五八郎が日本語に訳すという、二重の通訳を経ています。村垣はこのときの印象を二首の歌に残しました。宮殿の壮麗さを詠んだ「わだ津海の龍の宮といはまほし うつし繪に見し浦島がさま」と、国王夫妻の装いに面食らった「御亭主はたすきがけなりおくさんは 大はだぬぎで珍客に逢ふ」です。

幕府側は滞在の費用を支払うと申し出ましたが、ハワイ側は国賓として遇したのだから受け取らないと答えました。そこで一行は織物や漆器などを贈っています。夜会への招待も受けましたが、渡米という使命を果たす前に男女混合の夜会に出ることはできない、として辞退しました。

小栗が見に行ったのは新聞社だった

ホノルルで小栗がまっさきに見学に行った先は、王宮でも港湾施設でもなく、新聞社でした。ここで彼は〈銅板摺立方〉、すなわち活版印刷の実演を見ます。同行した勘定組頭・森田岡太郎清行は『亜行日記』にこう書きました。

機関の車をフレスと云ひ、摺立迅速なること一日におよそ千六百枚づつ

驚きはそこで終わりません。刷り上がった新聞を通詞に訳させてみると、記事の誤りが多い。小栗と森田は「浮説のみにて、信用あいならず」と批判しています。とくに首をかしげたのが、日本の通貨を紹介した記事でした。名村五八郎の訳によれば、大判は「長さ六寸、広さ三寸四分の三」で価およそ九十五ドル、「けだし天下の最大金貨なり」。ところが「小判の四倍大なるもの」という一節が何を指すのかがどうしてもわからない。森田は日記の末尾にこう記しました。「小判の四倍大なるも云々、何の貨を云ふや不審。再応、五八郎にたづねしに、原書のままなりと云ふ」。

この一日は、小栗にとって決定的な意味を持ちました。帰国後、彼は福沢諭吉とともに日本最初の西洋式新聞の発行を計画します。もし実現していたら幕末日本の世論は大きく変わっていただろう、と小栗自身がのちに述懐することになりました。ハワイでの新聞社訪問が、小栗と西洋式新聞との最初の出会いだったのです。

ホノルルを出た一行は、サンフランシスコへ向かいます。ハワイに寄ったぶん、到着は三月九日となり、寄港せず一直線に太平洋を渡った咸臨丸(二月二十六日着)より遅れることになりました。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(森田清行『亜行日記』を引く)/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(村垣淡路守『航海日記』を引く)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年

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