小栗忠順は、文政十年(1827)に江戸駿河台の旗本の家に生まれました。禄高二千五百石。当主は代々「又一」を通称としています。天保・弘化の少年時代を経て江戸城に出仕し、嘉永年間には建部政醇の娘・道子と結ばれ、安政二年(1855)に父の死を受けて家督を相続するまで――ここでは、その二十八年間を追います。
この章で扱うのは、生まれてから家督を継ぐまでの日々です。三十四歳での遣米使節・世界一周という、後半生を決めた一年間については、次の章「幕臣としての台頭・遣米使節」で詳しく取り上げます。
この章の記事
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文政十年、江戸駿河台に生まれる。二千五百石の旗本・小栗家の家系と、父・忠高、母・邦子について。
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小栗家の始祖にまつわる武功の言い伝え。資料によって「姉川合戦」と「長篠合戦」の二説があります。
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小栗家の家紋として系図に記された「丸に立浪」。その形と、家紋というものの持つ意味について。
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天保年間、屋敷内の私塾で学んだ幼少期。安積艮斎の門からは幕末を彩る多くの人材が育っています。
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疱瘡の跡と近眼を伝えられる少年時代。栗本鋤雲は「病身なようで意地っ張り」と回想しています。
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男谷精一郎門下で直心影流を、窪田助太郎に柔術を、田村主計に砲術を学んだ修行時代。
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天保十一年ごろ、建部政醇の屋敷で年長者と対等に渡り合い評判になったという逸話。
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天保十四年の初登城から、弘化四年の御番入りまで。旗本としての公的な出仕が始まります。
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嘉永年間、建部政醇の娘・道子と結婚。結婚後に記帳が始まった家計簿がいまも残っています。
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安政二年、新潟奉行在任中の父・忠高が病没。忠順が「又一」を襲名し、家督を継ぎます。
家督を継いだ二十八歳の忠順は、この四年後、目付として大海を渡ることになります。→ 幕臣としての台頭・遣米使節