小栗家は、徳川家康に仕えた武将小栗又一忠政を始祖と伝える旗本の家です。忠順はその十二代にあたります。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』によれば、小栗家はもと松平を称した三河武士で徳川一門にあたり、母方の姓を継いで小栗と名乗ったといいます。
始祖の武功については、姉川と長篠という二つの合戦の話が伝わっています。どちらか一方が正しいという関係ではなく、忠政の生涯のなかで時期の異なる別々の出来事として語り継がれてきたものです。
姉川 ― 「一番槍にも等しかるべし」
『寛政重修諸家譜』には、永禄十年に家康へ仕えて御小姓をつとめた、時に十三歳とあります。忠政は六十一年の生涯のうち四十九年を家康に仕えた計算になります。
阿部道山氏が伝えるところでは、元亀元年の姉川の合戦、忠政十六歳のときのことです。敵兵が突如として家康の陣地を襲い、家康自身が一太刀を浴びせられかねない場面がありました。傍らにいた少年小姓の忠政は、そこにあった信国の御槍を取って敵と渡り合います。そうするうちに味方が駆けつけて敵を撃滅し、家康の命は助かりました。
家康はこの働きを激賞し、『諸家譜』に明記されている賞詞を与えます。
忠政が心ききたる働きは、一番槍にも等しかるべし
あわせて、その信国の名槍が忠政に与えられました。以後、戦うたびに随一の高名をあげたので、家康は特に「又一」の名を与えたと伝わります。小栗家が代々「又一」を襲名してきたのは、この由緒によるものです。忠順も文久以前はこの名を用いており、以後は閣老に同名の人物がいるのを避けて、もっぱら上野介と称しました。
大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』の遺品目録には、「信国作の名槍(箱入)一本」が載り、忠政が十六歳の初陣で一番槍の功名を立て、家康愛用の十本槍のうち一本を与えられたものと伝える、と記されています。小栗家唯一の家宝とされ、現在は東善寺に保管されています。
五輪塔の指物
忠政は戦場に臨むとき、白地に黒く五輪の塔を描いた小旗を背にひるがえしていた、と伝わります。地・水・火・風・空の五大を表した旗です。敵はこの指物を掲げて進む忠政を見ると震え上がり、見ているうちに白地が血に染まっていくので、恐ろしくて近寄る者がなかったといいます。
長篠 ― 雨宮十兵衛家次との約束
阿部道山氏が伝えるもう一つの話は、姉川から五年後、天正三年五月の長篠の役です。忠政は酒井忠次に属して出陣し、鳶巣山の要害に拠る敵を、部下を督励して攻め落としました。
その日の夕方、小雨のなかで、忠政は山蔭から近づいてくる一騎の武士を見つけます。部下を止めて単身進み出ると、相手は「吾れは雨宮十兵衛家次と申す者也」と名乗りました。槍と太刀の勝負ののち組み打ちとなり、力尽きた家次は、討たれる間際に忠政へ一言を頼みます。故郷に元服前の一人の子を残してきた、自分の腰の太刀をその子に渡してほしい、と。忠政は「よし」と諾して、首級をあげました。
それから三年、天正六年の春、忠政は甲府へ攻め入ります。雨宮の遺族は戦後に消息を絶っていましたが、噂では、一子が甲府の恵林寺という禅刹で出家し、父の菩提を弔っているといいます。忠政は単身この寺を訪ね、住持から事情を聞いたうえで、その遺子と対面し、遺言の太刀を返しました。
この経緯は、『寛政重修諸家譜』の小栗忠政の条に記録されています。
又武田の士、雨宮十兵衛家次と組みついて、ついに討ち取りければ御感を蒙り、御腰物を賜ふ。家次討たるる時、忠政に其の子のことを託し、帯せし刀を渡したまはれと、いひしかば、忠政これを諾して、その後甲府に打入し給ひし頃、彼男子恵林寺にありしに、たづねあひて遺言をつたへ、この事を申したりければ、武功の者の子なりければとて、御家人に召加へらる
話が家康の耳に入り、家康は忠政の徳に感じて、雨宮の子もまた武功の者の子であるとして還俗を許し、武士に取り立てて家来に加えたというのです。武功のみを競う天正の世にあって、この一件は敵味方を問わず語り草になったと阿部道山氏は書いています。なお、この甲府の恵林寺は、中里介山『大菩薩峠』の慢心和尚の巻に出てくる名刹でもあります。
普門院に残った墓
忠政は元和二年九月十八日、六十一歳で江戸に病歿しました。遺言により、知行所であった武蔵・大宮在大成村の曹洞宗普門院に葬られ、そこが小栗家代々の菩提所と定められます。普門院の開基はもともと金子駿河守でしたが、忠政が大成を領してこの寺に力を入れ、その尽力で朱印地十石を賜ることになりました。忠政は普門院の再開基にあたります。
忠順は、この始祖を終生追慕しました。幕政が多端をきわめた時期でさえ、九月十八日の祥月命日には必ず乗馬で墓参し、忠政の墓前に下坐して礼拝したと古老は伝えています。その証として、墓前には「小栗忠順」の名で献じられた一対の石燈籠があり、嘉永元年九月十八日と刻まれています。
この墓には、もう一つの偶然がありました。慶応四年に忠順が斬られ、逆賊という宣伝が流されると、普門院の周辺にも官軍の手が及び、小栗家一族の墓は二十数基が打ち倒されます。ところが忠政の墓石には小栗の文字が一つもなく、「源室宗本禅定門」の戒名と元和二年・九月十八日の日付、そして「施主敬白」とあるのみでした。寺では長らく開基の金子駿河守の墓だと伝えられていたほどです。そのおかげで、始祖の墓だけは破壊を免れました。
阿部道山氏は、忠政と十二代・上野介の二人について、その人格と気魄に一脈相通じるものがあると書いています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(『寛政重修諸家譜』の引用を含む)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年
→ 誕生と生家、小栗家の家系 → 小栗家の家紋 → 『大菩薩峠』と小栗上野介