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誕生と生家、小栗家の家系

文政十年(1827)、江戸駿河台の屋敷に生まれました。生家である小栗家の家系を、略系図とともにたどります。

小栗忠順は、文政十年(1827)二月十二日の早朝、江戸・神田駿河台の屋敷で生まれました。幼名は剛太郎。父は小栗又一忠高、母はくに(邦子・国子と記す史料もあります)。坂本藤良氏は、このとき父が二十九歳、母が十七歳であったとしています。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は父を三十歳とし、細部には差があります。生まれた月日についても、二月十二日とする記録のほかに六月二十三日(西暦七月十六日)とする記録が伝わっています。

大坪元治氏は、この文政十年に何があったかを略年譜に書き添えています。頼山陽『日本外史』が成った年であり、のちの政敵・西郷隆盛が鹿児島に、中浜万次郎が土佐に生まれた年でもありました。

神田駿河台という土地

生家の位置は、いまの神田駿河台、主婦の友社ビルのあたりとされています。嘉永二年(1849)に刷られた『小川町切絵図』(尾張屋清七板元)で見ると、神田川の河岸から駿河台下に向かう坂道があり、小栗家はこれに面した武家屋敷で、川岸から数えて五軒目です。

さらに古い正保図(1644年刷)では、水道橋と懸樋のあいだを一橋方向へ向かう道が「小栗坂」と名づけられており、そこに小栗家の屋敷があります。ところが寛文図(1670年刷)と延宝図(1679年刷)には、この地域に小栗の名が見えません。坂本藤良氏は、明暦三年(1657)の大火――本郷丸山町から出火し、八百町を焼き、死者十余万人を出した「振袖火事」――で焼けて移転し、その後また駿河台に戻ったのではないか、と推測しています。

この一帯が「駿河台」と呼ばれること自体にも、理由があります。神田山の坂を上がったこの台地からは駿河の富士山が美しく望まれ、駿河大納言も屋敷を賜りました。駿河から移ってきた徳川家臣の屋敷が多かったことから、誰が言うともなく駿河台と呼ばれるようになったのです。ここに屋敷を与えられていたこと自体が、徳川の古い家臣としての格式を示していました。

家計簿と日記には「神田祭礼見物候に付座席料」といった記録が残っています。神田川の対岸はすぐ神田明神です。この家の人々が、かなりしばしばそこへ足を運んでいたことがわかります。

遠祖をめぐる三つの伝え

小栗家の遠祖については、はっきりしないところが多く残っています。

親戚筋にあたり、小栗家についてもっとも詳しかった学者である蜷川新は、『維新前後の政争と小栗上野介の死』(昭和三年)で「小栗家は、清和源氏であり……」と記しました。家に伝わる由緒としては、これが長く語られてきたものです。

一方、坂本藤良氏は、今日研究されているかぎり小栗家は清和源氏ではなく平氏の子孫と考えられる、として、小栗上野介顕彰会編『たつなみ』第六号に載った塚越真一氏の稿を引いています。それによれば、小栗姓は桓武天皇から五代の後裔にあたる良望が名を国香と改め、常陸大掾に任ぜられて関東で栄えた、その子孫にあたる。常陸大掾系の系図には「小栗五郎」重家の名が現れ、その末の頼重は、父・満重とともに応永三十年(1423)に足利持氏と戦って敗れ、三河へ逃れたとされます。

三つめが、松平氏族としての系譜です。松平泰親の長男・太郎左衛門尉信広の家系で、その子忠吉、さらにその子吉忠のときに、家康の命によって外戚の氏である「小栗」を冒したとされます。家伝と、系図研究と、松平系の記録が並び立っているのが現状で、どれか一つに決めきれてはいません。

二千五百石という家格

小栗家は、二千五百石の直参旗本でした。享保七年(1722)の調べでは旗本五二〇五人、御家人一万七三九九人。旗本の大半は百石から五百石取りで、五百石以上は〈お歴々〉、千石以上は〈御大身〉と呼ばれました。二千五百石は、そのなかでも上位に位置する規模です。ただしこの禄高は初めからのものではなく、寛永十年(1633)までは五五〇石、この年三月に七五〇石へ加増され、のちに二五〇〇石となりました。さらに忠順の代、万延元年に遣米使節から帰国したときに二百石を加増されて二千七百石になります。

領地は一か所にまとまっておらず、各所に散らばっていました。最大のものは下野(栃木県)足利の高橋村です。上野(群馬県)群馬郡の権田村――のちに忠順最期の地となる村も、この散在する采邑の一つでした。「上野介」という名乗りは、この上野の采邑に由来します。

父・忠高と母・くに

忠順の父・忠高は、小栗家の生まれではありません。十代当主の忠清が文化十年(1813)に病床に伏したとき、家には嫡男がいませんでした。そこで忠清は、隣家の旗本・中川飛驒守忠英の四男である忠高がまじめな好青年であるのに目をつけ、養子に迎えて、自分の長女くにと娶わせます。忠高が家督を継いだのは、同じ年の十月三日のことでした。

皮肉なことに、嫡男がいなかったはずの忠清は、その死の直後に男子に恵まれます。この子は、忠高の弟として届け出られました。血筋よりも家名と役目を絶やさないことが重んじられた時代の、実務的な処理です。

忠高は文政九年(1826)に〈御小姓組〉に召し出され、その翌年に忠順が生まれました。以後も順調に進み、天保十四年に〈御使番〉、同年〈西の丸御目付〉となって〈布衣〉に昇進、さらに〈御留守居番〉〈御持筒頭〉を経て、嘉永七年(1854)には新潟奉行に任じられています。新潟は江戸時代を通じて枢要の地で、幕府はここを天領とし、奉行を置いていました。

忠順が満六歳のとき、妹・貞子が生まれましたが夭折しています。母のくには鏡寿院と号し、明治七年(1874)一月十五日に没しました。

そして小栗家では、代々の当主が「又一」を通称としました。忠順も又一、父の忠高も又一、養嗣子の忠道も又一です。この名の由来は、始祖・小栗又一忠政の武功にさかのぼります。

略系図

ここまでに登場した二代の関係を、簡単な図にまとめました。実線はいずれも記録で確認できるつながりです。

小栗家 略系図(十一代・十二代) 十一代・小栗又一忠高とその妻・邦子の間に、十二代・小栗上野介忠順が生まれた。忠順の妻は建部道子。いずれも記録で確認できるつながりであり、実線で示す。 小栗又一忠高 十一代・新潟奉行/58歳で没 邦 子 十代・忠清の娘 小栗上野介忠順 十二代 1827-1868 建部 道子 建部政醇の娘
  • 実線 ― 記録で確認できたつながり
  • 点線 ― 家伝が伝えるつながり

忠順自身の結婚の経緯については、後の記事で改めて紹介します。まずは、この家の始祖にまつわる言い伝えから見ていきましょう。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』、顕彰会会誌『たつなみ』第六号 塚越真一氏の稿の引用を含む)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 始祖・小栗又一の武功伝説 ― 姉川か、長篠か / 小栗家の家紋「丸に立浪」 / 父・忠高の死と家督相続