中里介山『大菩薩峠』は、明治の末に起稿され、大正の初めから発表がはじまり、著者が亡くなる昭和十九年(1944)まで書き継がれて未完に終わった長編小説です。劇にも映画にもなり、二十年以上にわたって読書界の人気をさらいました。介山氏自身はこれを「大衆小説」と呼ばれるのを嫌い、「大乗小説」と言ってくれ、と語っていたといいます。
この長大な物語に、小栗上野介は何度も姿をあらわします。しかも通りすがりの脇役としてではありません。阿部道山氏は、「この大菩薩峠に現れる小栗上野介こそ誤りなくその人を描写して遺憾なく、小栗の再来であると私は思ふ。小栗もよい友を得たものである」と書いています。
第七巻「Ocean の巻」
小栗がもっとも濃く出てくるのは第七巻「Ocean の巻」です。全編を通じて英語で巻名を付けたのはこの巻だけで、阿部道山氏は「この巻はほとんど小栗のために書いたやうな感がある」と評しました。
この巻の鍵になるのが、駒井甚三郎という人物です。もとの甲府勤番支配・駒井能登守で、英語に達者な設定になっています。作中の駒井は、小栗の命を受けて横須賀村で海水の深浅を調査している――つまり造船所建設の測量の現場に置かれているのです。九十九里ヶ浜に立った駒井は、山田白雲にこう言います。
「この海を Pacific Ocean といひます。太平洋とか大海原とか訳しますかな。米利堅の国まで遮るものが一つもありません。我々は今世界で一番広い海を一番広くながめ得る地点から見てゐるのです」
面白いのは、横須賀の測量現場に軍艦奉行の組頭が乗り込んでくる場面です。勝安房の威を借りて出てきた組頭が、沖の旗印を見とがめて「高崎藩の紋ではないぢゃないか」と言う。配下が「丸に立波のやうに見えますが」と答える。そこで「紛ふ方もないこれは勘定奉行小栗上野介殿の定紋」と気づいた組頭の顔に、狼狽の色が浮かぶ――という一場です。丸に立波は小栗家の定紋で、阿部道山氏は、もとは五輪の塔であったものが後世に立波へ改められたと注を付けています。
介山が書いた小栗論
同じ巻の五一一頁以下は、もはや小説の地の文というより一篇の小栗論です。
「相州横須賀の造船所が主として小栗上野介の方寸に出でたものであることは申すまでもありません。横須賀の造船所が然るのみならず、講武所も兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。勝安房(海舟)の如きも小栗に会つてはその権勢、実力共に頭が上がらない」
忘却についての有名な一節が続きます。
「小栗上野介の名は徳川幕府の終りに於ては何人の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては忘れられすぎるほど忘れられた名前であります」
介山氏はその理由を、芝居のたとえで説明しました。江戸城明け渡しという大詰を、西郷隆盛という「千両役者」と勝安房という脇師の二人が「猫の児を譲り渡すやうにあざやかな手際で」幕にしてしまったため、その一幕では他の役者が一切無用になった――と。「歴史といふものは、その当座は皆勝利者側の歴史であります」。そのうえで、「舞台の廻し方が正当(或ひは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は勝でなくて小栗でありました」と書いています。
五一四頁の評価は、こうです。
「少くとも明治維新前後に於ては、軍事と外交と財政とに於て、彼と並び立ち得るものは一人もなかつたと云ふことは事実であります」
さらに介山氏は、「もし小栗が成功していたら」という仮定まで立てました。徳川の大政奉還はすでに済んでおり、小栗の頭はとうに郡県制度の施行に定まっていたから、その場合も徳川幕府の全盛が戻ることはない。小栗は勢いに乗じて野心を遂げる人物ではないから、大勢順応はむしろ素直に進んだかもしれない――と。そのうえで、上州の片田舎で最期を迎えたこの「不遇なる人傑」の名が謳われないことを惜しんでいます。
滝の川の火薬製造所
小栗が出てくるのは Ocean の巻だけではありません。第三冊「道庵とボラ八の巻」には、江戸近郊の滝の川に西洋式の火薬製造所が建つ場面があります。滝の川の甚兵衛という水車小屋の付近に公儀の役人が出向いて縄張りがはじまり、川の流れを利用する計画らしい、と噂が立つ。やがてそれは火薬製造所だと分かる――という書き出しです。
「この火薬の製造所は、従来の火薬の製造とは違つて、日本に於いて初めて西洋式の火薬の製造所を建てるといふことなのであります。その計画は小栗上野介と武田斐三郎との両人の企てで、沢太郎左衛門が其れに参加したのは、やや後のことになります」
同じ頁には「この火薬の製造所を計画した小栗上野介は一流の人傑で、幕府に於ての主戦論の第一人者でありました。勘定奉行にして陸海軍奉行を兼ね、勝も大久保も皆其の配下に働いたものであります」とあります。阿部道山氏は、滝の川の火薬製造所について書いたのは介山氏をもって嚆矢とすると記し、自分の顕彰運動もこの小説に負うところが多大だと告白しています。
一本の標柱が結んだ縁
その介山氏と阿部道山氏が出会ったのは、昭和十一年四月二十六日のことでした。盗まれて戻った小自動車の試運転を兼ねて大宮方面へ出た介山氏が、与野と大宮の間で「小栗上野介首塚、普門院」という標柱を見かけ、帰りに立ち寄ったのです。介山氏の個人雑誌『峠』第六号に、その日の紀行文が載っています。境内には徳川家達の筆と蜷川新の文章による大石碑、海軍省が寄贈した武器があり、上野介の墓は自然石でした。
庫裡に入ると「住職らしい縞衣の人」が出てきて応対したが「可なりぶつきらぼうであつた」と介山氏は書いています。一方、迎えた側の記憶はこうです。ワイシャツだけを着た、でっぷりした、口ひげの濃い、眼光の鋭い紳士が玄関に立っている。しつこく小栗のことを尋ねてくるので名刺を求めると、住所のない名刺に「中里介山」とあった。中学時代に師匠に隠れて『大菩薩峠』を耽読した、その著者でした。痩せ形を想像していたら「軍人型の仁」だったので驚いた、とも書いています。
名刺を見た住職は一変して客間へ通し、寺に伝わる古文書や話を聞かせました。この地はもと大成村で小栗家五百石の知行地、寺の山号も「大成山」。小栗が江戸を退去して上州へ向かうとき、ここに立ち寄って多くの品を奉納・委託していったこと。墓のわきの石灯籠に刻まれた「忠順」の字は維新当時に憚って摺りつぶされ、捨てられていたのを近ごろ発見して据え直したこと――。「一本の小栗の標柱が、縁となつて知り合つたばかりである」と阿部道山氏は書いています。
阿部道山氏が『海軍の先駆者小栗上野介正伝』を書いた昭和十六年の時点で、『大菩薩峠』はまだ完結していませんでした。執筆のために久しぶりに会おうとしたものの、自身が臥床中に介山氏が六月一日に渡米してしまい、小栗を書いた動機を聞けなかったことを「実に残念である」と記しています。ついにその機会は訪れず、作品も未完のまま残りました。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(中里介山『大菩薩峠』および『中里介山純粋個人雑誌 峠』第六号の引用を含む)