「木曽路はすべて山の中である。」――島崎藤村の長編『夜明け前』は、この一句から始まります。第一部は昭和四年に起稿、同六年に書き終えられ、七百三十一頁の大冊になりました。舞台は木曽十一宿、東境の桜沢から西の十曲峠まで二十二里にわたる谷あいの街道の、馬籠という一宿場です。本陣当主・青山吉左衛門の子、青山半蔵という多感な青年の目を通して、幕末の変動が描かれていきます。
この小説には、小栗上野介が二度、重要な形で顔を出します。戦前にこの点を丁寧に読み込んだのが、阿部道山氏でした。氏は『海軍の先駆者小栗上野介正伝』のなかに「島崎藤村著『夜明け前』に現れた上野介」という一章を設け、作品を「後世に貽るべき名著」と讃えながら、史実と異なる箇所を指摘しています。
一九二頁 ― 咸臨丸が沖を通る
半蔵に国学の手ほどきをした医師・宮川寛斎は、思いがけない心境の変化から金儲けを志し、中津川の萬屋安兵衛とともに木曽を飛び出して、開港したばかりの横浜にやってきます。その寛斎の視野に、夢のように入ってくるものがありました。
日本最初の使節を乗せた咸臨丸が亜米利加へ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府から購ひ入れたと云ふその小さな軍艦は品川から出帆して来た。艦長木村摂津守、指揮官勝麟太郎をはじめ、軍用方、測量方から火夫まで、一切西洋人の手を借りることなしに …… 大洋を乗り切らうと云ふ日本人の大胆さには、寛斎を驚かした
島崎藤村『夜明け前』第一部
阿部道山氏は、この一節に二つの誤りがあると指摘します。
遣米使節が乗ったのは咸臨丸ではなく、アメリカがわざわざ日本まで廻送した軍艦ポーハタン号です。正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、監察・小栗豊後守忠順の三人を中心とする一行は、万延元年正月二十一日にこれに乗り込み、ハワイを経てサンフランシスコに着きました。金子堅太郎が『万延元年第一遣米使節日記』(大正七年、日米協会刊)に寄せた序文によれば、一行の人員は八十一人です。
咸臨丸の艦長は木村摂津守ではありません。艦長は勝麟太郎で、木村は軍艦奉行の現職として総裁の立場にありました。
阿部氏は、事実どおり「米艦ポーハタン号に乗艦する」と書いても作品の価値は落ちない、むしろそのほうが評価を高めるだろう、と惜しんでいます。なお、ポーハタン号は使節一行への無用な刺戟を避けるため、軍艦の生命であり威容でもある大砲まで卸していたと、海軍大佐・広瀬彦太が伝えています。
七百七頁 ― 「土蔵附き売屋」
第一部の終盤、藤村は小栗の有名な言葉を正面から取り上げます。
土蔵附き売屋
これは、傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかして支へられるだけ支へようとしてゐるやうな、その大番頭の一人とも言ふべき小栗上野介の口から出た言葉である。土蔵附売家とは何か。それは幕府が外国政府から購ひ入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ …… 元治元年あたりからその計画があつて、愈々慶応元年のはじめより経営の端緒に就いた横須賀の新しい造船所を指す。どうして造船所が売屋であるのか 。…… これは小栗上野介の一時の諧謔でもない。
島崎藤村『夜明け前』第一部
徳川の身代を売りに出すとしても、土蔵つきの家として売れば買い手の見る目が違う――その「土蔵」が横須賀の造船所だ、という意味です。藤村はさらに続けます。
そして、江戸幕府の没落の運命を辿りつつあつたことは幕府内部のものですらそれを痛感してゐた間にも、来るべき時代のためにせつせと支度を怠るまいとするやうな、こんな近代的な設備がその一隅には隠されてゐた。
この一文に対して、阿部道山氏は「私はよく云つてくれたと著者に感謝してやまない」と書いています。小栗の胸中には薩長よりも幕府よりも大切なもの、国家更生の道があった――氏はそう読み取りました。
「喜多村瑞見」は誰か
『夜明け前』は、この造船所の計画を、小栗と喜多村瑞見という知友の協力によるものとして書いています。阿部道山氏は、これは栗本鋤雲が正しく、喜多村瑞見云々は誤りである、と断じました。横須賀海軍工廠の食堂には鋤雲の写真が高く掲げられており、小栗の片腕が栗本であることは世間にも認められている、というのがその理由です。
もっとも、藤村の用いた「喜多村」という姓は無縁のものではありません。鋤雲はもともと喜多村の家に生まれ、昌平黌で学んだ大秀才で、人びとは彼を「お化け喜多村」と呼びました。栗本家を嗣いだのは嘉永元年のことです。
地方から見た幕末という視点
藤村はこの作品で、竹田耕雲斎以下の水戸浪士一派の悲惨な最期も描きました。十五代将軍慶喜については、「あたかもこの土蔵附き売家の札を眺めに徳川の末の代にあらはれて来たやうな人である」と書きつつ、多年内外の政局にあたって見聞も広く経験も積んだ、決して尋常の貴公子ではない人物だと付け加えています。
中央の政局は、木曽の一宿場には伝聞や噂として届きます。小栗の名も、そうした「遠い中央の出来事」の一つとして作中に織り込まれました。当事者として小栗を描く伝記や研究書とは違う角度から、幕末という時代が地方でどう受け止められていたかを知ることができます。ただし阿部氏の指摘のとおり、小説である以上、史実との食い違いは残ります。どこまでが史料に基づく記述で、どこからが創作かを意識して読むのが、この作品との正しい付き合い方でしょう。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(島崎藤村『夜明け前』第一部を所引)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
→ 栗本鋤雲 → 横須賀製鉄所 → 中里介山『大菩薩峠』に描かれた「再来」