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滝野川の幻の火薬工場

武田斐三郎、澤太郎左衛門との共同で、瀧野川に日本初の洋式火薬製造所を計画していました。

小栗の経済・産業構想のなかには、江戸・瀧野川(滝野川)に日本で最初の洋式火薬製造所を建てるという計画がありました。横須賀製鉄所ほどには知られていない事績のひとつです。

坂本藤良『小栗上野介の生涯』は、小栗が財政手腕を背景に進めた近代化構想を列挙するなかで、その筆頭に「滝野川火薬製造所および反射炉の建設」を挙げています。同じ並びには湯島鋳造所の改良、小石川大砲製作場の建設、騎・歩・砲「三兵」の編制と陸軍教育の充実がつづき、さらに兵庫商社、中央銀行設立計画、諸式会所、フランス語学校、新聞発行計画、ガス灯・郵便・電信・鉄道の建議が並びます。火薬製造所は、この構想群の一角を占めるものでした。

武田斐三郎・澤太郎左衛門との共同計画

この計画は、小栗が一人で進めたものではありません。武田斐三郎との両人の企てとして始まり、澤太郎左衛門が加わったのはやや後のことだった、と伝えられています。武田は五稜郭の設計者として知られ、澤は洋式軍艦の技術に明るい人物でした。

阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、この計画を世に知らしめたものとして中里介山の小説『大菩薩峠』を挙げ、その「道庵とボラ八の巻」から次のような一節を引いています。

その時分に瀧の川の甚兵衛といふ水車小舎の附近に、公儀から役人が出向いて縄張りがはじまりました、何か目的あつて此の土地へ建前をするものやらに見受けられました。殊に其れは川に沿ふて水の流れを利用するらしい計畫であります

縄張りの意図は、大工の伊三郎や鳶の萬蔵といった職人たちの口から、「瀧の川附近へ公儀で火薬の製造所をお建てになる御目論見」だと漏れ伝わった、という描き方です。介山は、この製造所が「従来の火薬の製造とは違つて、日本に於いて初めて西洋式の火薬の製造所を建てる」ものであり、その計画は小栗と武田斐三郎の両人の企てであったと書いています。小説ではありますが、阿部道山氏は「この火薬製造について書かれたのは先生を以て嚆矢とする」として、その記述を重く見ました。

なぜ瀧野川だったか

阿部道山氏は、立地の理由を輸送に求めています。火薬の運搬に荒川を利用すれば、江戸へも横須賀へも直ちに運ぶことができる——製鉄所と陸軍と、両方に届く場所だという読みです。水車小屋の近くという『大菩薩峠』の描写も、水の流れを動力に使う計画だったことを示しています。跡地については「現在の外国語学校の敷地がその跡だと称する人もある」と記されています。

大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、慶応三年(一八六七年)五月に一大火薬製造所の建設計画が起工したとし、その主務者は忠順が抜擢した秋田豊三郎であったと記しています。同じ年の四月には兵庫商社の建設が上申され、七月には日仏組合商法(ソシエテ・ジェネラル)の計画が進み、九月には役職金制が布告されています。火薬製造所は、小栗がもっとも多くの事業を同時に動かしていた年に着手されました。

「西への備え」だったのか

中里介山は同じ小説のなかで、「この火薬の製造所とても、西の方に起る大きな新勢力に対する用意の一つであることは申すまでもありません」「王政維新を叫ぶ西の方の諸藩の人に取つて、此の火薬製造所の計画が尋常のものとして見過ごされないのは当然であります」と書きました。薩長の側から見れば脅威に映ったであろう、という見立てです。

これに対して阿部道山氏は、「西の方の力に抗するためにこんなことをすると見るには余り小さすぎる」と反論し、横須賀の造船所創立にあたって栗本鋤雲に語った言葉から考えれば、新しく生まれようとする日本の国防のためと見るのが妥当だ、としています。同じ事実を、敵対勢力への備えと読むか、国家の基盤づくりと読むか——評価が割れたところに、この計画の性格が表れています。

幕府の崩壊によって、この製造所が稼働することはありませんでした。それでも、造船・製鉄だけでなく、軍需物資の製造という分野にまで専門家を巻き込みながら手を伸ばそうとしていたことは、小栗が思い描いた「洋式の産業基盤」の広がりを示しています。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 横須賀製鉄所 ― 日本の近代工業のはじまり → 『大菩薩峠』と小栗上野介 → 兵庫商社