小栗家には、小栗流という家伝の武術が伝わっています。坂本藤良氏はこれを「変則剣法」と呼びました。剣術に「組打ちの法」や柔術を組み合わせた、当時としては異色の流派だったからです。そしてこの小栗流こそ、土佐の坂本龍馬が少年時代から学んだ武術でした。
小栗仁右衛門信由が編み出した流派
小栗流の源流をたどると、新陰流の上泉伊勢守秀綱に行き着きます。上泉の流れは柳生石舟斎宗厳に受け継がれ、その門から二つに分かれました。一つは正統の〈柳生流〉として柳生宗矩・三厳・宗冬へと継承された流れ、もう一つが傍流の小栗流です。
創始者は小栗仁右衛門信由。小栗家の祖で「又も一番槍」と称された小栗忠政の子にあたる人物です。信由は柳生宗厳について剣を学び、これに柔術を結合させて一種独特の剣法を編み出しました。まったく異種と考えられていたものを組み合わせ、新しい実戦的な剣法を開いたそのユニークさが買われ、寛永年間には一世を風靡します。大名や旗本が続々と入門して門人は三千六百人に達し、将軍上覧の御前試合まで行われました。
土佐へ渡った小栗流
幕末、この小栗流を土佐に広めたのが朝比奈半左衛門でした。そして龍馬は、姉の乙女とともに小栗流の日根野弁治の道場に日参します。龍馬が受けた伝書は、はっきり記録に残っています。
嘉永六年(1853)一月、十七歳のとき「小栗流和兵法事目録」
安政元年(1854)「小栗流兵法十二箇条」「同二十五箇条」各一巻
文久元年(1861)「小栗流和兵法三箇条」一巻
つまり龍馬が学んだのは「小栗流と同名の何か」ではなく、小栗家から出た小栗流そのものでした。ただし、これは忠順と龍馬のあいだに直接の師弟関係があったことを意味するものではありません。二人が剣を交えた、あるいは面識があったという記録があるわけではない点は、押さえておく必要があります。
忠順自身が学んだのは直心影流
では忠順本人はどうだったのか。彼が学んだのは家伝の小栗流ではなく、直心影流でした。幕末の剣聖といわれた男谷精一郎信友の門に入り、藤川整斎に免許皆伝の印可を受けたと伝えられます(細かい点には諸説があり、一致しません)。柔術は窪田助太郎、砲術は田村主計に学んだといいます。
もっとも、忠順がどういう順路でこの印可に至ったかについては、坂本藤良氏が知るかぎりでも四つの異説があり、そのいずれもが男谷との関わりを指摘しています。父・忠高のつてで本所亀沢町(もしくは麻布狸穴)の男谷道場に入門して直接指南を受け、のち藤川から印可を得たとする説。まず男谷の高足・島田虎之助の門に入り、のちに訣別して藤川の門へ移ったとする説。虎之助と双璧とうたわれた横川七郎に師事し、ついで藤川の門へ移ったとする説。横川の門を叩いたところ虎之助を紹介されたが、会ってみるとその大言壮語ぶりが肌に合わず、口論の末に憤然と立ち去って藤川の門に入ったとする説です。どの筋書きでも、忠順が島田虎之助とは結ばれなかったという点だけは共通しています。
直心影流もまた、上泉伊勢守を源とする古い流派です。これを有名にしたのが長沼四郎左衛門国郷で、今日使われる四つ割竹の竹刀と、面・籠手・胴の防具を発明・改良した人物でした。芝西久保にあった長沼の道場は他派からさんざん悪口を浴びせられましたが、やがてその連中も防具を使うようになります。坂本藤良氏は、天保期の江戸が空前の町道場ブームにあったなかで忠順が人気道場を選ばなかったこと、古い伝統を持ちながら合理的な技術革新を進めた流派を選んだことに、「まがいもの、ハッタリが大嫌いだった」という本人の気性を見ています。
その剣の腕前については、師の言葉が伝えられています。男谷は、のちに忠順の立ち合いを見て、こう激賞したといわれます。
思いきや、斯人の剣にして此の妙境に達せんとは
剣でつながる三人
同じ直心影流の系統には、もう一人の大物がいます。勝麟太郎、のちの海舟です。勝は最初、いとこにあたる男谷の道場に入門し、天保九年(1838)、十五歳のときに男谷門下の島田虎之助が独立して道場を開くと、そちらへ移りました。忠順は島田を選ばず男谷のもとに残っており、坂本藤良氏は、のちに最も鋭く対立することになるこの二人が、少年時代のいずれかの時点で同じ道場で剣を競った可能性はかなり濃厚だ、と見ています。
小栗流の龍馬、直心影流の忠順と勝。坂本氏は、日本最初の株式会社を作ったのが忠順であり、その先駆的組織を構想したのが龍馬であり、その龍馬に重大な影響を与えたのが勝であったことを挙げ、この三人が十代の剣術修行を通じてすでに目に見えぬ糸で結ばれていた、と書いています。龍馬とともに海援隊を運営し、のちに三菱を興した岩崎弥太郎が江戸に出て学んだ塾が、小栗屋敷のなかにあった安積艮斎の塾だったことも付け加えられています。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年