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安積艮斎塾の同門たち

幕臣も倒幕派も机を並べた安積艮斎の私塾。門人帳に名を残す多彩な人材を紹介します。

少年時代の忠順が通った塾は、遠くにはありませんでした。小栗屋敷の長屋そのものが塾だったのです。幕末を代表する漢学者・安積艮斎が、神田駿河台の小栗家の長屋を借りて開いていた私塾でした。門人帳には幕末から明治にかけての多彩な名が並び、多くの人材を送り出しています。

小栗屋敷の長屋に開かれた塾

艮斎は寛政三年(1791)三月、陸奥国安積郡郡山の生まれ。父は安積国造神社の神主でした。名は重信、字は思順、通称を祐助といい、艮斎と号します。幼いころ二本松藩の藩儒に儒学を学び、のちに江戸へ出て佐藤一斎の学僕となり、ついで林述斎に学びました。

小栗屋敷に塾を開いたのは文化十一年(1814)と伝えられます。天保二年(1831)に『文略』を著して名声を博し、以後さらに学問に磨きがかかって、その名は日本全国に知られました。容貌魁偉、学問ひと筋で、貧乏を苦にしなかったため妻に逃げられるなどの苦労もあったといいます。

天保十四年(1843)には二本松藩侯の教授に迎えられて一時二本松に移り、まもなく江戸に戻って、嘉永三年(1850)、ついに昌平黌の教授となります。当時の昌平黌は日本最高の学問所であり、その教授は今日の国立大学教授よりはるかに重い存在でした。艮斎は進歩的な思想も理解し、渡辺崋山・高野長英らと交わり、アメリカやロシアの書物の翻訳も手がけています。

そのあとが、この人らしいところです。艮斎は貧窮時代に小栗家から受けた援助を深く恩に感じていたらしく、二本松藩に迎えられたときも、昌平黌教授となったのちも、小栗屋敷内の塾を閉じませんでした。この塾は、万延元年(1860)三月に艮斎が世を去るまで続いたと伝わります。

忠順がこの塾に通いはじめたのは、妹を亡くした天保五年(1834)、満六歳のときといわれます。もっとも、幼い忠順が直接教えを受けたのは、高弟の森田禎介・庫石典太であったと考えられています。

机を並べた顔ぶれ

『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)は、艮斎の代表的な門弟として次の九人を挙げています。

  • 一、栗本鋤雲 忠順より五歳年上。幕府御殿医・喜多村槐園の三男で、神田小川町裏猿楽町の生まれ。のちに外国奉行となり、横須賀製鉄所の建設を小栗とともに担います。

  • 二、小栗忠順 塾の大家でもある小栗家の当主の子。

  • 三、川路聖謨 勘定奉行・外国奉行を歴任した幕末の能吏。プチャーチンとのロシア応接では交渉の主力を務めました。

  • 四、高杉晋作 長州藩士。奇兵隊を組織し、第二次長州征討では小倉城の幕軍を攻めて戦果を挙げます。

  • 五、岩崎弥太郎 のちに三菱財閥の礎を築いた実業家。

  • 六、中村敬宇(正直)・神田孝平・福地桜痴・大須賀筠軒 明治の官界・言論界・学術の各分野で名を残した人々。

幕臣もいれば、倒幕を志した志士もいる。実業界で名を成した者もいれば、明治の言論界を支えた者もいる。一人の師のもとに、後年まったく異なる道を歩むことになる人々が机を並べていました。第二次長州征討では、小栗が戦費を引き受けた幕軍と、高杉の奇兵隊とが小倉で戦いました。同じ塾の名簿に並ぶ二人です。

この塾で結ばれた縁のうち、最も長く続いたのが忠順と栗本瀬兵衛の友情でした。二人の交わりは少年時代に芽生え、生涯変わることがありません。いまも忠順最期の地である上州権田の東善寺には、二人の胸像が並んで建っています。

塾を出たあとの道筋も、この時代らしいものでした。栗本は昌平黌に進み、天保十四年、二十二歳で幕吏登用試験である校試甲科に合格して白銀十五錠を賞されます。同期に岩瀬忠震がいました。体格がよく容貌も堂々としていたため、人びとは彼を「お化け喜多村」と呼んだといいます。ところが同じ年、昌平黌の規則に触れて退学となり、その後の人生が大きく変わっていきました。

栗本自身も、少年時代の忠順についての回想を残しました。のちに犬養毅は栗本を生涯「先生」と呼び、自分を「門人」と称しています。艮斎の塾に始まった学問の系譜は、思いがけないところまで伸びていきました。

典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年

→ 安積艮斎の私塾と英才たちの交遊 / 栗本鋤雲 ― 蝦夷から幕閣、生涯の友