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薩摩琵琶「小栗上州公」の歌

遭難八十八年忌にあわせて作られたと伝わる薩摩琵琶の歌。顕彰運動が生んだ文芸作品を紹介します。

昭和三十年(一九五五年)五月六日、小栗上野介の遭難から数えて八十八年忌にあたる日に、上州権田の墓前で一曲の琵琶歌が弾奏されました。題は「小栗上州公」。作詞は大坪元治氏で、のちに氏がまとめた『小栗上野介忠順家系及略年譜』(小栗公顕彰会、昭和三十二年)の巻末に、歌詞の全文が収められています。末尾には「此の歌は昭和三十年五月六日、小栗忠順遭難八十八年忌に際し、上州権田の墓前にて薩摩琵琶に作曲し、弾奏されたものである」と付記されています。

大坪元治氏は浦和に住んだ小栗研究家で、顕彰会の記録に「戦中より戦後にかけしばしば来村し、権田における多くの事実を発掘して、顕彰に大きな貢献をしている」と書かれた人です。歌詞を収めたこの年譜も、奥付に「不許複製」「非売品」とあり、マキノ謄写堂で刷られた謄写版の小冊子でした。

歌はどう始まるか

歌い出しは、慶応四年の江戸城です。

慶応戊辰春浅く 千代田の城の松ヶ枝は 色変らねど変り行く 我が世の果を如何にせむ 此処大江戸に築きたる 三百年の花の夢 覚めて果敢なき人の世の 運命を吹くか夜半の風

松の枝の色は変わらないのに、世のほうが変わっていく。三百年の夢が醒める、という導入から小栗が登場します。

今幕閣に名も高き 小栗上野介其の人は 英俊果断稀に見る 誠忠無二の名士なり 先つ日君に選ばれて 波路遙けきアメリカと 和親を結ぶ大任を 果して帰るあしたより

遣米使節としての渡航が、事績の筆頭に置かれています。歌はそのまま、帰国してからの八年に移ります。

内政軍事経済と あらゆるつとめ身に負ひて 八年に余るその間 精根尽せし甲斐もなく 春寒き鳥羽伏見 忽ち響く砲の音 三ッ葉葵も末枯れて 再び匂ふ菊の香や

八年あまりの務めを一身に負って精根を尽くしたが、その甲斐もなく鳥羽伏見の砲声が響いた――という筋立てです。葵が枯れ、菊が匂うという対句で、政権の交替が一行に畳み込まれています。

「孫呉の策」と恭順

この歌の山場は、戦うか退くかの場面です。

たとへ天下の兵挙げて 襲ひくるとも何かせん 我に孫呉の策ありと 胸に秘めたる戦術に 敵を破るは安けれど 嗚呼すでにして恭順の 方針遂に定りぬ

孫子・呉子の策があり、敵を破ることは容易だ——という自負を胸に秘めながら、すでに恭順の方針が決まっていた。歌はそのあと、至誠も主君に容れられず、慣れ親しんだ城の石垣や天守の月影に恨みの涙を注ぐ、と続きます。そして「はやさまでといさぎよく 都を捨てて上毛の 権田の里に下り行く」と、江戸を去る場面に移ります。

この下向の場面のあとには、和文の流れを断ち切るように漢詩の一聯が挟まれます。「春雁似吾吾似雁/洛陽城裡花に背いて帰る」。都の花に背を向けて北へ帰る雁に、江戸を離れる小栗の姿を重ねた一聯です。

結びは、慶応四年閏四月、烏川のほとりの水沼河原です。

早くも迫る西軍の 非道の刃避け難く 嗣子忠道を始めとし 家臣の面々諸共に 祖国の前途憂ひつつ 斃れし事ぞ無惨なれ 星霜此処に八十八年 烏川の水の末遠く 後の世までも功績は 伝へて永く残るらむ 伝へて永く残るらむ

最後の一句を繰り返して終わる形です。「星霜此処に八十八年」という一行が、この歌が八十八年忌のために作られたものであることをそのまま示しています。顕彰会がのちに作成した小栗関係の著作目録には、放送・映画・詩歌の部に「琵琶歌 烏川落花」が昭和三十年五月として挙げられています。

歌が作られた年の権田

昭和三十年という年は、権田で顕彰が一気に動き出した時期にあたります。前々年の昭和二十八年八月十四日、小栗上野介の遺跡が群馬県教育委員会から県史蹟に指定されました。同年九月には、横須賀市が胸像を新たに改鋳することになり、大正十一年建立・朝倉文夫作の従前の胸像原型が、縁故の地である倉田村へ寄贈されることが決まります。村は「小栗上州公胸像建設委員会」を作り、三十名の建設委員を委嘱して準備を進めました。

除幕式は昭和二十九年五月六日午前十時、東善寺で行われています。胸像除幕、慰霊法要、県史蹟指定報告式が続き、除幕したのは上州公の曾孫にあたる小栗忠人氏でした。琵琶歌が墓前で弾かれたのは、その翌年の同じ命日です。

顕彰行事のなかの琵琶

この歌は、一度きりの供養で終わりませんでした。翌昭和三十一年(一九五六年)五月十三日、八十九周忌にあたって東善寺で営まれた行事の式次第には、「小栗公『琵琶』発表演奏(録音) 大坪元治氏作」が第七番として組み込まれています。同じ日の番組には、小栗上州公慰霊法要、農兵慰霊法要、殉難者供養、栗本鋤雲翁胸像除幕、仁義併存碑(農兵碑)の除幕、大坪氏による講演「栗本鋤雲翁について」「小栗公夫人脱出と農兵の活躍について」、スライド映写が並びました。顕彰会の記録は、この日を「非常に盛会であった」と伝えています。

この式典の直前、四月二十八日に顕彰会長・塚越伝三郎氏から倉渕村長・追川忠雄氏へ陳情書が出され、顕彰を寺の檀徒中心から村の事業へ移すことが求められました。陳情は容れられ、五月十三日の式典後に顕彰会は村を主体とする組織へ改組されます。そして翌昭和三十二年五月十五日、改組後の第一回「小栗まつり」が東善寺で催されました。九十年忌法要、改組報告、高橋恭一氏(横須賀市史主任)と大坪氏の講演に続き、式次第の終わり近くに「一、余興 琵琶」が置かれています。歌詞を収めた『小栗上野介忠順家系及略年譜』の奥付にある発行日は、この五月十五日でした。

歌はさらに残りました。昭和五十年に刊行された大坪指方・穂積驚『小栗上野介』(小栗上野介を偲ぶ会)には、「さて十五年ほど前、小栗さんを讃えて作詩した琵琶歌が筆者にある」という一文に続けて、同じ歌詞が、末尾の付記まで同じ形で再び収められています。

石碑や胸像、伝記の刊行が「形に残す」顕彰であるのに対し、琵琶歌のような語り物は、その場に居合わせた人の耳に届く顕彰です。法要の墓前で弾き語られ、翌年には録音として再び聴かせ、その次の年には余興として式次第に載る——そうやって小栗の生涯を語り継ごうとした人々がいたことを、この歌詞は伝えています。

典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』・小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』

→ 昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像 → 仁義併存の碑 → 栗本鋤雲