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蜷川新と「仁義併存」の碑文

小栗の妻・道子の甥にあたる国際法学者が、生涯をかけて筆を執り続けました。

小栗上野介の名誉回復を語るうえで欠かせない人物に、国際法学者の蜷川新がいます。旗本五千石・蜷川家の当主で、小栗の妻・道子とは縁戚にあたりました。道子は播州林田藩一万石の藩主、建部内匠頭政醇の長女。その妹が蜷川家に嫁いでおり、蜷川新はその子にあたります。大坪元治氏は彼を「上州公夫人の愛甥」と書いています。

『維新前後の政争と小栗上野介の死』

昭和三年(一九二八年)、蜷川は『維新前後の政争と小栗上野介の死』を世に出しました。小栗の刑死を単なる幕臣の粛清としてではなく、維新前後の政争のただなかに置いて論じた本です。この年のうちに版を重ね、蜷川自身が「書物は既に九版を重ね居る由に候」と書き送っています。

同じ昭和三年、昭和天皇の即位大礼を期して、群馬郡倉田村長・市川元吉から群馬県知事あてに小栗の「贈位内申書」が提出されました。しかし贈位は、このときも選に洩れます。遺憾の意を書き送った市川村長に対し、蜷川が返したのが次の書簡(昭和三年十一月二十三日付)でした。

人民より国家の功労者として申立てし人物、然も皇太后まで御承認になりし人物を、宮内省とか内閣とかの役人共が阻止して人民の目的を達せしめざることは、余りに人民を愚にする処分に候 村民の輿論を天下に御訴へに相成事が宣敷と存候

幕府に反せし人に限りて勤王と云ふ事が既に正しからず候 国家が大切に候、国家に尽せし人を尊ばざれば大なる誤りに候

薩長の天下となりし以来、世に誤論多く候 自分の仲間のみを勤王とか志士とか申居候 奸悪に候

贈位そのものについては「小生等は贈位と云ふ事を余りに重き事に見不申候 つまらぬ人が贈位せられ居るのを見て斯く申上ぐるを憚らず候」と突き放しています。

水沼河原の碑(昭和七年)

蜷川の筆が最初に石に刻まれたのは、処刑の場所そのものでした。昭和六年、倉田・倉渕両村の有志が、前倉田村長・市川元吉を会長として建碑協議会を組織し、村内外から募金を集めます。碑が完成し、除幕式典が行われたのは昭和七年五月五日。烏川畔の水沼河原、小栗主従が斬られた場所です。撰文も揮毫も蜷川新(号・岳南)によるもので、刻まれた文字はこれでした。

偉人小栗上野介
罪なくして此所に斬らる

じつは蜷川は、二枚を書いて地元に送っていました。もう一枚は「幕末の偉人小栗上野介終焉の地」。どちらを採るかは地元に委ねられ、建碑委員会は前者を選びます。選ばれなかったほうは表装され、現在も倉渕村役場の村長室に掲げられています。

「罪なくして斬らる」という言いかたは、官軍が無法な処刑をしたと公言することになり穏当を欠くのではないか——当時、その筋からきつい指導があったと、建碑に関係した人が伝えています。蜷川はのちに、碑を訪ねた人へこう語っています。「あの頃よく市川元吉村長が頑張って建てたものですよ。実は私は田中義一(陸軍大将総理大臣)と親しくてね、在郷軍人会の顧問と云う肩書があり、田中は事情をよく知って居りましたから、問題にならずに済んだのです」。

この碑は、昭和十年九月の大水害でいったん流失します。その後の河川改修工事の際に無疵のまま発見され、昭和十二年五月、現在の位置に再建されました。これを機に、同年五月十五日、遭難七十周年を期して「小栗上野介遺跡保存会」が結成されています。

東善寺の「仁義併存」碑(昭和三十一年)

これとは別に、権田の東善寺に建てられたのが仁義併存碑です。場所も年も、碑の趣旨も、水沼河原の碑とは異なります。

大坪元治氏によれば、この碑は昭和三十一年(一九五六年)五月六日、東善寺の小栗の墓のかたわら、梅の古木の下に自然石として建てられました。顕彰会の記録では、同年五月十三日に営まれた八十九周忌の行事の式次第に「仁義併存碑(農兵碑)除幕」が組み込まれ、同じ日に栗本鋤雲翁の胸像除幕や農兵慰霊法要も行われています。

「仁義併存」の四字は、当時八十三歳だった蜷川新の揮毫。撰文は大坪元治氏、書は当時の東善寺住職によるものです。碑文はこう読めます。

慶応戊辰閏四月六日、小栗上野介父子主従、東山道鎮撫総督使員の毒刃に斃る。時に権田領民有志敢然蹶起し、夫人母堂を擁して重囲を脱出、山河遙かに越後より会津若松城に走り、砲煙弾雨中に在りて悪戦苦闘、佐藤銀十郎、塚越富五郎を失ひたるも、終始一貫よく護衛の大任を果たし、為に小栗家の裔を存する事を得たり。次いで帰京後直ちに旧主の遺志を奉じて苦心惨憺、遂に父子の首級を館林に得て遺骸を全からしめたる功績は、啻に郷党の誇りたるのみならず、上毛人士一片の義気凛然以て千載に伝ふるに足る。此処に当時を回想し挺身尽力せし人々の芳名を録し後世に残すものなり

つまりこの碑は、小栗個人の碑ではありません。権田の人々が小栗の家族を会津まで護り、のちに館林から父子の首級を取り戻した——その働きを刻んだ碑です。裏面には「此の碑の題字は上州公夫人の愛甥法学博士蜷川新先生の揮毫で、誉田三左ェ門孫故三十郎未亡人タイ子氏の特志により之を建立す。小栗公顕彰会」とあります。誉田三左ェ門とは、護衛隊の隊長をつとめた中島三左ェ門景稠の改名した名です。建立の志は、その孫の家から出ました。

刻む名前を確定する作業は難航しました。大坪元治氏は、蜷川が集めた資料にある十六名と、東善寺裏山の胴塚に刻まれた連名を突き合わせましたが、双方から池田伝三郎や誉田さい子といった人物が落ちており、蜷川資料には名はあっても姓がない。当時は一人が本名のほかに三通りほどの名を持つのが常で、塚越房五郎が胴塚では寿五郎、別の資料では二郎三郎とされるといった食い違いも重なります。東善寺の過去帳にもあてにならないところがあり、大坪氏は遺族を一軒ずつ訪ね歩いて、最終的に二十名を直接の護衛として確定しました。

「一管の筆で一撃を加えた」

大坪元治氏は、昭和十二、三年ごろに初めて会ったときの蜷川の言葉を書き留めています。

歴史は繰りかえしまさあ。薩長の連中は関ヶ原の恨みを、維新の時武力で報いましたよ。偉らい奴等だ。私は一管の筆で一撃を加えたのですが、その為どれ程損をしたか解らない。然し会津の人や、東軍側の連中からは、心から感謝されました

昭和三年の著書から昭和三十一年の題字まで、三十年近く同じ主題に向き合いつづけました。水沼河原に立つ「罪なくして此所に斬らる」が処刑への抗議であるとすれば、東善寺の「仁義併存」は、その後を引き受けた人々への礼状でした。

典拠:小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』(市川八十夫「埋れ木をほる─小栗上野介顕彰のあゆみ」)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像 → 家族の会津脱出 → 薩摩琵琶「小栗上州公」