慶応四年の権田村に、六尺近い体躯の若い家臣がいました。池田伝三郎(いけだ でんざぶろう)、のちに伝、池田彰信(あきのぶ)と名乗った人です。当時二十三歳。角力取りの子として生まれ、権田の家の婿養子になり、小栗の歩兵となりました。烏川を渡って敵本陣へ斬り込み、夫人一行を会津まで導き、五稜郭で戦い、京都で巡査になりました。許婚を村に残したまま、二人は夫婦になっていません。
角力の子、紙屋の婿養子
出生については二通りの伝えがあります。小板橋良平氏は、信州中野の角力取りの子で、幼いころ吾妻郡須賀尾村の上原家へ貰われ、当主・重五郎の弟として育てられたとします。重五郎は一人息子だったため、義兄弟として迎えられたことになります。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、上田藩お抱えの力士が萩生の親族の家で客死し、残された子を聞き知った池田民吉が貰い受けて養子にしたと記します。
十七、八歳のころ、権田村上ノ久保の通称「紙屋」池田民吉の家へ、娘かよの許婚として養子に入りました。体格と気質がすぐ小栗の目に止まり、十八歳で江戸駿河台の小栗邸へ留学します。権田の若者を屋敷内の長屋に住まわせ、フランス流の歩兵操練所へ通わせる仕組みがあり、伝三郎もその一人でした。権田へ戻ってからは、安中藩の撃剣指南役・根岸松齢について剣を学びます。荒木流と北辰一刀流の達人と伝わります。
川を渡って斬り込む
慶応四年三月、三ノ倉の博徒と近隣の村人が権田を襲いました。小栗方は百人ばかりを五小隊に分け、伝三郎は用人・塚本真彦の下で一隊を率いて、権田上宿から川田橋の周辺に配置されます。対岸の宮原村にある敵本陣との対峙です。荷車に細長い樽を載せて擬装の大砲をつくり、火薬を詰めて威しに射ちました。木の樽でも大音響が出たといいます。
そのあと烏川を渡って宮原へ斬り込み、川浦村の名主・丸山源兵衛を斬りました。源兵衛は馬庭念流・樋口十郎左衛門の門下で、ともに剣の使い手でした。大井磯十郎と並んで五人ほどを討ち取ったことは『小栗日記』にも書き留められています。
直ニ又ぞろ上宿へ又一を遣し、山上より彼を攻撃致し、遂に烏川向川浦村ニ押入彼を追討致し此節、池田伝、大井磯十郎五人程討取、其他歩兵之者ども、十人も所々ニテ討取
斬り込む前に、胆を据えるため倒れた屍の血を啜ったと聞き書きは伝えます。この戦いで小栗は「斬るな斬るな」と制していました。狭い村のことで、討たれたのは対岸の顔を知る人々でした。
万騎峠をまわる
閏四月三日の午後、小栗一族は東善寺を出て、まず上ノ久保の池田家――伝三郎が養子に入った、かよの家――に足を止めました。一家は縁側に腰を下ろして遅い昼食の麦飯を食べたと、かよと清太郎が語り残しています。四日の夜、亀沢の大井方を出て大反村へ。伝三郎は会津までの先導と、吾妻郡内での宿の手配を受け持ちました。吾妻から信州までの地理に明るいことが、この役を決めました。
一行が上関の高橋家で草鞋を脱げたのは、その縁故です。高橋家の妻女は須賀尾の上原重五郎の家から嫁いだ人で、伝三郎の義姉にあたりました。嫁入りのとき付添いで来た家であり、かよの母の生家でもありました。受け入れの用意をして待っていたので、潜行の秘密は固く守られます。
矢竹の村はずれで一行は二手に分かれます。身重の道子は中島三左衛門らと須賀尾峠へ、母・邦子(六十歳)と又一の許婚・日下鉞(十四歳)、付き添いの中島さいは、伝三郎・塚越富五郎・萩原五平次らに守られて万騎峠をまわりました。
この脱出行には、もう一つ伝三郎の口から残った話があります。大反峰で一行が吉井藩の隊長・小林(黒沢)省吾に見つかったとき、隊長は夫人が妊娠中なのを憐れみ、斬るに忍びず逃がしました。『吾妻郡志』はその場面をこう書いています。
家従池田彰信外一、二の者等に、奥方を草刈籠の中に容れ、周囲に芝草を蔽いて、人目を憚り交るがわる擔ひ
この一件は、後年「京都府属で勲七等 池田彰信」の口から漏れて世に伝わりました。彰信が伝三郎の後年の名です。
→ 会津へ従った十七人 / 妻・道子の避難行 / 誉田三左衛門
ダンビラを下げて帰って来る
会津城が落ちたあと、伝三郎は仙台から開陽丸に乗って函館へ渡り、五稜郭で戦いました。敗れたあとも権田のかよのもとへは帰らず、京都で巡査になります。
権田に姿を現したのは、落ちてから六年目でした。巡査の姿でダンビラを腰に下げ、名主・佐藤藤七の家を訪ねて「主君の仇」と抜きました。藤七は裏口から逃げ出し、縁の下に隠れて震えていたといいます。騒ぎを聞いた紙屋の池田民吉が駆けつけて説き、ようやく断念させました。小板橋氏はこれを明治五年六月のこととし、同月二十七日に藤七が急死したこと、自殺とも毒殺ともいう噂が流れたことを書いています。
かよの聞き書きには、同じ日のことがこう残りました。
奥様と落ちたっきり解らず、六年目にひょっこり戻って来て、大阪で世帯を持ち、妻子もある、許して呉れと泣いた。そしてお殿様のお墓に供えるものがないから、藤七どんの首を供えるのだと言った。藤七どんはふるえ上るし大騒ぎ、村の衆が中に入って、いろいろ話をつけた
髭と、京紅の包み
明治十年の西南戦争にも、伝三郎は出ています。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、巡査となって戦線に加わり、田原坂で頬を射抜かれ、その傷隠しに髭をはやしていたと伝えます。『小栗卍教伝』は、熊本鎮台の伍長として参戦し籠城した話を本人が語ったと記します。
明治十四、五年ごろ、伝三郎は東善寺を訪ねました。住職となっていた小栗卍教へ「菊之助様お久しぶりで御座います」と鄭重に挨拶し、博徒騒動のときの話と、西南戦争の話をしていきました。
その後は京都市属となり、養鶏場を営みました。かよの婿となった周吉と、同村の市川学重が伊勢参りの折に訪ねたときは、大変歓迎されたといいます。二人は「眼の玉の大きな偉そうな人」と語り残しました。
かよへは、死ぬまで毎年いくらかの金を送り続けました。包みには京紅と美しい小間物が入っていました。かよは「一度大阪へ行って見度いと思っている内、兄さは死んだ」と語っています。伝三郎は熱病で世を去りました。法名は翔陽伝光居士。没年月を記した記録はありません。
東善寺裏山の胴塚に刻まれた歩兵の連名にも、明治二年六月に小栗悌四郎から護衛の者へ届いた感状の名簿にも、伝三郎の名は出てきません。昭和の建碑のとき、大坪元治氏は胴塚の連名と蜷川新の集めた資料を突き合わせ、双方から落ちていた池田伝三郎と誉田さい子を加えて二十名としました。
典拠:小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』あさを社/顕彰会会誌『たつなみ』/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/大坪元治『家系及略年譜』/『倉渕村誌』(『吾妻郡志』所引を含む)/『小栗日記』群馬県史料集第七巻