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誉田三左衛門 ― 主君の首を迎えに行った男

権田村の酒造家で組頭。小栗の家族を会津へ逃し、処刑を見届け、館林まで首級を迎えに行きました。

誉田三左衛門(ほんだ さんざえもん)は、もとの名を中島三左衛門といいました。権田宿の二十二番屋敷に住む、屋号「山三(やまさん)」の酒造家の長男です。文化十三年(一八一六年)生まれ、慶応四年当時五十三歳。村の組頭と百姓代をつとめました。姉のあさは同じ権田の名主で酒造家の佐藤藤七に嫁ぎ、藤七とは義兄弟です。

「その任を三左衛門に託したい」

閏四月三日の夜、小栗忠順は東善寺の寓居に村役人を呼び集めました。家族を逃がす段取りを決めるその席で、小栗はこう言いました。

家族の保護は大任である。わしはその任を中島三左衛門に託したい。同人は村民特に若者たちの信望も厚く、且つ沈勇にして胆力がある

三左衛門は「身命を賭してお殿様の命に従う」と答え、同行者の人選も引き受けました。小栗家の金庫にあった三千両のうち、観音山の居宅の普請に千六十両が出ており、残りはこの夜、従者に分けられます。三左衛門に渡ったのは八百両でした。

身重の道子夫人の付き添いには、自分の娘さい(十七歳)を出しました。出産直後で乳も出る、体も強い、危急には身代わりにもなる、という人選です。さいは母と夫の涛市を村に残して父と同行しました。

農夫のなりで、主君の最期を見届ける

閏四月六日の未明、討伐の兵が村に入りました。権田の村役人はみな姿を隠します。三左衛門だけは残りました。早川桂村の記録はこうです。

三左衛門は普通農夫の如く変装し、人夫中に雑り、成行き如何と傍観しつつ在りたるに、上野介主従は官軍のために、水沼河原に於て斬殺せられ

農夫のなりで人夫にまぎれ込み、主君が斬られるところを自分の目で見届けたのです。そのうえで隠れ場所へ駆け戻り、間道から吾妻郡入山村の山田弥平次方を目指しました。

矢竹の村はずれで一行は二手に分かれます。道子には三左衛門らがついて須賀尾峠を越え、母の邦子と又一の許婚・日下鉞は池田伝三郎・中島さいらに守られて万騎峠を迂回しました。広池村では名主・山本市兵衛の家で馬を借り、和光原で両組が落ち合います。越後の秋山を経て十日町に入ったところで路銀が尽きました。三左衛門は塚越房五郎と中沢亀吉に、権田へ戻って三百両を調達するよう言い渡しますが、二人は信州路を戻る途中、渋の宿で松代藩士に捕まって三日間抑留され、村でも金策はまとまりませんでした。一行は堀之内村で母の組と合流し、新潟から蒲原郡水原の陣屋へ。留守居役の秋月真次郎に事情を告げると、会津から駕籠三挺と馬一匹の迎えが来ました。

→ 護衛に加わった二十人 / 道子の避難行

静岡まで送り届けて、乞食同然で帰る

会津が降伏したあとも一行は滞留し、明治二年の春に会津を発ちます。江戸に着いてみると、徳川家はすでに静岡へ移っていました。三左衛門は母・夫人・生まれた幼児に随従して静岡まで行き、又一の実家の駒井家と交渉して、又一の弟に仮に小栗家を継がせる話をまとめました。

主家を再興して、託された任は終わりました。村へ戻ったときの彼らの姿は乞食同然だったと言い伝えられています。休む間もなく、三左衛門は次の仕事に取りかかりました。

お首級迎え

小栗が生前、塚本真彦に冗談めいた口ぶりでつぶやいたという言葉が、村人の胸に残っていました。

ことによると、わしも先の井伊大老さまのように暗殺され、首と胴体が別々になるやも知れぬが、せめて身首一緒に眠りたいものだ

首は館林の法輪寺、胴は権田と下斉田。三左衛門は塚越房五郎を連れて下野国足利郡高橋村へ向かい、名主の人見宗兵衛に協力を取りつけます。決行は小栗の一周忌にあたる四月六日の夜。掘り当てた首桶から首級を取り出し、真綿を敷いた飯櫃に移して背負い、翌七日の晩に高崎で馬を雇って、夜道を権田へ帰りました。首級は三左衛門の家の床の間に安置され、村役人と旧歩兵たちが秘かに参拝し、一年忌の法要が営まれました。

東善寺裏の胴塚の胴体は、処刑の直後、首のないまま木製の仮の首をつけて埋葬されていました。三左衛門はこれを掘り起こし、本物の首級と差し替えて埋め直します。館林藩庁の役人が取り返しに来ることを恐れ、関わった者全員に口止めをしたうえで、こう念を押したと小板橋良平氏が書いています。

このお殿様のお首は、観音山の屋敷跡に埋めたことにする。絶対に他言は無用、口が裂けても言ってはならない。家の者にもな

取り出した木製の首は観音山の頂に埋めました。月々の命日には、花と線香を持って偽装の墓へ参ります。

→ 首級奪還の一夜

「汝等は小栗の臣下にあらず」

埋葬を終えた三左衛門は、この地を鎮撫する前橋藩庁へ帰国の届書を出します。直後に召喚状が届き、出頭すると役人はまず「何故村の年寄役でありながら、一年間も村を離れていたのか」と尋ねました。三左衛門は会津から静岡までの顛末を述べ、どのような処分でも受ける覚悟だと言い添えました。

役人の答えは意外でした。

汝等は小栗の臣下にあらず、只知行所の村役人と百姓たるに過ぎざるに、身命を賭して其の地頭の為に尽せる赤誠は累代食禄を食む家臣と雖も遠く及ばざる所なり。三左衛門は爾今苗字中島を改めて誉田と称すべし

罪を問われるどころか、姓を賜り名字帯刀を許されて帰村しました。明治四年の布告で「何左衛門」の類の名が使えなくなると、名を三平次と改めます。

誉田三平次は明治十二年九月、六十五歳で没しました。墓は権田の十王堂墓地にあり、石塔は大正三年に孫の三十郎が建てたものです。娘のさいは、付き添いから帰った五年後に婿の涛市を失い、大正九年、六十九歳で世を去りました。早川桂村が『上毛及上毛人』に書いた権田脱出の記録は、このさいと三十郎、次男の喜平、権田の古老たちから聴き取った談話を土台にしています。

東善寺裏の胴塚には会津まで同行した歩兵たちの名が刻まれ、下段の中央に一段高く「誉田三左衛門影稠」と読めます。

典拠:早川桂村「小栗夫人の権田脱出とその後の小栗家」(『上毛及上毛人』大正十二年一月/『倉渕村誌』所収)/『倉渕村誌』/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』あさを社

→ 池田かよ ― 権田の春を見た少女 / 諏訪恵伯 ― 鍵を預かり、少年の命を乞うた住職 / 水沼河原の最期