池田かよは嘉永五年(一八五二年)生まれ。小栗家歩兵池田民吉の娘です。家は権田村上ノ久保、屋号を「紙屋(かみや)」という池田家でした。小栗忠順が権田に来てからは、東善寺へ手伝いにいつも出かけたといいます。
権田の東善寺に住んだ小栗一家を間近に見た人のうち、その姿を昭和まで語り残したのは、この人だけです。
昭和十八年秋の聞き書き
昭和十八年(一九四三年)の秋、川原湯で静養していた病身の大坪元治氏が権田を訪ね、旅館池田屋の主人・池田素象氏の紹介で、はじめてかよに会いました。九十一歳。小栗が権田にいた春から七十五年がたっていました。
大坪氏は、このときの様子を「福々しい顔の真ン中に、ドッシリ坐った鼻、切長な目は優しく、大きな口から、十七才で小栗様のお顔を見た話が、昨日のことのように、流れ出して来る」と書きとめています。聞き書きはこのあとも何度か記録され、のちに活字になりました。
「背の高い、あばた顔の」
小栗様が東善寺へ御座ったのは、私が十七才の時だった。寒い頃での、すぐお屋敷を建てるのに取り掛った。お殿様は背の高い、あばた顔の、色は黒かったが優しいお顔、若殿は矢張り背の高い、これは色白の立派な男振りだった。殿様は時々おあるきになったが、若殿は毎日馬で観音山へ通われた
顔にあばたがあったことは、遣米使節に同乗したアメリカ側の記録にも「少しばかり痘痕のある彼の顔は、智力と聡明とで輝いていた」と書かれています。背丈については、同じ記録が小栗を「小男であった」としています。
毎日馬で通ったという観音山は、小栗が居宅と塾を建てようとしていた場所です。
「あとはおうたという二十二、三のと」
そうさ、家来は二十人も居たかな。奥方は背の高い、細面のすばらしい美しい人、役者のお姫様そっくり、あとはおうたという二十二、三のと、女中が三人程、どうもはっきり思い出せない
十七歳のかよの目に、奥方の道子は「役者のお姫様そっくり」と映りました。おうたと呼ばれる女性が、女中三人とは別に数えられています。この名については、小栗家の家計簿に出てくる「於綾」とあわせて別の記事にまとめました。かよ自身は「どうもはっきり思い出せない」と断りを入れており、聞き書きはそこまでを伝えています。
牡丹餅と雛人形
奥方は身重で、時々女中が手を取り、家来がお供して、私の家の近所へ歩きに来て、お寄りになったので、牡丹餅を作って上げたら、一口食べただけでお笑いになり、そのままお帰りになった。あとで馬丁が雛人形を持って来て、奥方様からとのことだった
寺の暮らしも語っています。奥の十五畳敷が殿様と若殿の部屋で、あとは広いのでごたごたと住み込んでいた。屋敷ができたら若殿と祝言をさせるという「初々しいお嬢さま」――又一の許婚の鉞――も来ていた。家来では「武笠銀の助とか云う、十七、八の若いのが威張っていたが、荒川という四十位のさむらいが、いろいろ取り仕切っていたらしい」。
→ 武笠銀介
おとっつあまと兄さ
お殿様が三ノ倉へ連れて行かれた時は、わしは少しも知らなかった。おとっつあまと兄さは、小栗様の家来になり、兄さは奥様について、会津へ行った。いやもうこわいことばかり
父の民吉は当時四十一歳。中島三左衛門のもう一人の副隊長格として、夫人の脱出の護衛に加わりました。明治二年六月に小栗悌四郎から護衛の者へ届いた感状にも「民吉」の名があり、東善寺裏の胴塚にも刻まれています。かよは権田に残りました。
「兄さ」は池田伝三郎(のち伝、彰信)です。上田藩お抱えの力士が萩生の親族の家で客死し、残された子を民吉が引き取って養子にした人で、かよの許婚でした。夫婦の盃をさせる寸前に、小栗の一件が始まります。伝三郎は吾妻から信州の地理に明るいことから会津への道の先導役をつとめ、落城後は仙台から開陽丸で函館へ渡って五稜郭で戦い、権田へは戻らず京都で警察官になりました。
六年目に、ひょっこり戻ってきます。大阪で世帯を持ち妻子もある、許してくれと泣いたとかよは語りました。そのとき伝三郎は、殿様の墓に供えるものがないから藤七どんの首を供えるのだと言い出し、名主の佐藤藤七は震え上がって大騒ぎになり、村の衆が中に入って話をつけました。小板橋良平氏はこれを明治五年六月のことと記しています。藤七はその後間もなく死去しました。
伝三郎はかよに、死ぬまで毎年いくらかの金を送り続けました。包みには京紅と小間物が入っていたといいます。かよはのちに周吉を婿に迎えました。
髪の毛一本動かさなかった
小栗の最期は、かよが見たことではありません。村で聞いた話として語っています。
殿様はだまし討にされた。家来衆は殿様をこんな処で、こんなことで殺すのは勿体ないと、口惜しがって斬られたが、殿様は髪の毛一本動かさなかったと、偉いお方だったなあ
聞き書きには、この一節のあとに「お婆さんの目に涙が光った」と書き添えられています。
かよは昭和二十七年、百歳を越えて世を去りました。大坪氏は「数多い貴重な談話を残して呉れた、小栗さんの面影を知る唯一の人であった」と記しています。なお小板橋良平氏は、かよを民吉の妹としています。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年(「小栗こぼればなし」の聞書、三四五〜三四九頁)/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』あさを社・顕彰会会誌『たつなみ』/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年