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武笠銀介 ― 主君の首を守ったとされる若者

小栗家の用人の子として、十八歳のときに主君の首級を密かに菩提寺へ運んだという、忠義の逸話が伝わります。

武笠銀介――はじめの名を銀之助といいます。小栗家の筆頭用人・武笠祐左衛門の次男として、江戸・神田駿河台の小栗屋敷内で生まれました。のちに本人が生前みずから建てた墓の裏面には、「小栗上野介用人武笠祐左衛門巍成次男 江戸駿河台小栗邸ニテ出生」と刻まれています。

武笠家は、忠順の父・忠高の代からの用人でした。天保三年(1832)の寺への納め物の証文には「武笠祐左衛門黒印」と「又一」=忠高の名が並んで残っており、祐左衛門が小栗家を代表して使者に立つ重職であったことがわかります。一家は小栗屋敷の内に住んでいました。父の祐左衛門は、忠高の命日には菩提寺である牛込横寺町の保善寺へ代拝に出るような立場の人でもありました。

父の代わりに権田へ

慶応四年(1868)三月、忠順が知行所の上州権田村へ引き移るにあたって、祐左衛門も供をするはずでした。ところが当時すでに七十歳を超え、高血圧(中風とも伝わります)に悩んでいたため随行を外れ、代役として息子の銀之助を小姓として権田へ送ったといいます。祐左衛門自身は江戸にとどまり、留守居用人を勤めました。

権田で銀之助が負った務めは、記録にはっきり残っています。三月、三ノ倉に屯集した一揆勢が権田村へ押し寄せたとき、『小栗日記』はこう記します。

「御母様、於道、於鉞并女子共、真彦家内共者、武笠銀之助并佐藤藤七相添、其余村役人とも為附、村内山間江為立退置」

忠順の母クニ子、夫人道子、又一の許婚である鉞子、用人塚本真彦の家族――小栗家の女性と子どもたち全員を、名主の佐藤藤七とともに榛名山西麓の山中へ避難させる役目です。忠順自身が百人余りを率いて敵に向かっているあいだ、一家の命を預かったのがこの少年でした。

ただ一人、斬られずに済んだ

閏四月、銀之助は又一に従って高崎へ赴きます。石上寺に幽閉され、七日、又一・塚本真彦・沓掛藤五郎・多田金之助の四人が高崎藩牢屋敷で斬られました。銀之助はその数に入りながら、ただ一人助かります。

遺族に伝わる理由はこうです。東善寺の住職諏訪恵伯(慶応四年当時は「悪伯」と名乗り、明治七年の戸籍で恵伯と改名。当時四十九歳)が、縄目にかかった少年を見て、この年で斬るのはあまりにむごいと、無我夢中で助命嘆願をくり返した。それが捕方の心を動かしたというのです。別に、あまりに美少年であったため副監軍・原保太郎が斬るのを不憫に思った、という説も伝わります。二十歳ごろに写した写真が残っており、切れ長の目元と高い鼻、長身色白の様子が伝えられています。

このときの年齢は資料によって異なります。阿部道山氏は十八歳とし、顕彰会側の調査では十六歳(十四歳説もある)とされます。放免にあたっては三両(一両とも)を渡され、埼玉の母の実家へ無事に辿りつきました。

村長となった後半生

その後、銀之助は同じ北足立郡三室村の豪農・武笠武貞の養子となり、武笠家十三世を継いで銀介と改めます。青雲の志を抱いて横浜で外国人から英語を習ったとも伝わります。やがて三室村の村長となり、村政と公共事業に打ち込んで武笠家の財産を使い果たしたといわれるほどでした。村の若者が徴募兵として横須賀海兵団へ入るときには、「よし、俺が長官に紹介状を書いてやる」と一筆したためて持たせたといいます。旧主が築いた造船所が海軍工廠になっていた時代の話です。

一方で、権田のことはついに語りませんでした。酒が入ると家族の前でもかまわず涙を流し、殿様に申し訳ない、朋友に申し訳なかった、と嘆いたと伝わります。助命を願ってくれた恵伯和尚への恩義は終生忘れなかったといいます。子の教介氏は、のちに小栗家の縁者や研究者に対して「父は生前そのことを語らず」と述べています。

大正十年(1921)一月一日、生まれた場所と同じ神田駿河台にあった杏雲堂病院で病没しました。行年六十七。墓は生前みずから建てたもので、表に「十三世武笠銀介之墓」とあります。昭和八年九月、普門院の住職だった阿部道山氏が土地の古老の案内で自転車を走らせ、畑のただなかに残る屋敷跡と、武笠家歴代の墓が並ぶ白衣観音堂を訪ねた日の記録が残っています。

遺族のもとには、忠順が祐左衛門に宛てた最後の長い手紙が伝わっていました。また小栗家から拝領したという百人一首も残っており、一枚ずつ丁寧に絵を描いて歌を記し、裏は金色という贅を尽くした品だったといいます。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』/『小栗日記』群馬県史料集第七巻

→ 忠義の若者、主君の首を守った話