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忠義の若者、主君の首を守った話

用人の子・武笠銀介、当時十八歳。危険を顧みず、主君の首級を守ろうとしたと伝わります。

慶応四年閏四月六日、水沼河原で斬られた小栗忠順の首級が、小栗家の小姓・武笠銀之助(のちの銀介)の手で持ち去られ、埼玉・大宮の普門院に密かに葬られた――。昭和のはじめから広く語られ、小説にも取り入れられたこの話は、いまなお小栗の最期をめぐって最も知られた逸話のひとつです。その出どころと、のちに積み重ねられた検証を、順に見ておきます。

話の出どころ

この話をまとまった形で世に出したのは、普門院の住職・阿部道山氏でした。同氏の『海軍の先駆者小栗上野介正伝』(海軍有終会、1941年)は、上野介の最期を記したのち、こう続けます。

「首級は従者武笠銀介なるものに依つて秘かに菩提所たる普門院小栗家歴代塋域に埋葬した」

同書はさらに、銀介が厳重な監視の目をくらまして逃亡し、烏川畔に梟された首を持って関東へ下り、普門院の大猷和尚に面して始祖忠政の墓のかたわらに秘葬した、と記しています。傍証として挙げられているのが、大猷和尚直筆の慶応年間の過去帳です。同年四月十四日に山内でささやかな葬儀を営んだ旨が記され、その脇に、上野介と同じ日に斬られた従者三名の名が細字で書き添えてある。この三名の名は「武笠氏が後で告げたものと思はれる」というのが同書の見立てでした。

大猷和尚は、焼失した普門院の再興に全力を挙げ、自ら大島まで出かけて楠の大木を買ってきたと伝わる人です。その後援者が、当時勘定奉行だった上野介でした。この和尚も、上野介の死から二か月足らずのその年五月三十日、何者かに斬殺されています。朝になって弟子たちが発見し、大騒ぎになったといいます。検死の役人も型ばかりで、そのまま小栗の墓のかたわらに埋めたと伝えられます。官軍と称する浪人風の士が寺の周囲をうろついて恐ろしかった、という近隣の述懐も残されており、こうした不穏な空気が、首級埋葬という物語を育てる土壌になりました。

首級は館林へ送られていた

一方、顕彰会や小栗研究者の側からは、早くから強い反証が出されています。最大の論点は、首級の行き先です。

閏四月七日に高崎で斬られた又一の首は、曝された直後に下ろされて首桶に入れられ、強い焼酎に漬けられました。そのうえで、前日に斬られた父・上野介の首とともに、首実検のため館林城内の総督府へ送られているのです。大坪指方氏らは、「之もすぐ首櫃に入れて館林に送り、父子諸共総督の実検に供しているのだから、武笠銀介が盗み出せる訳がない」と書いています。烏川の川辺に梟されたまま放置されていた、という前提そのものが成り立たない、というわけです。

では、銀之助は何をしたのか。高崎で助命され、金を渡されて放免された彼は、馬丁とともに馬で、父・祐左衛門が身を寄せていた北足立郡馬宮村の永田家へ向かいました。その道中、普門院の門前に立ち寄って主君の最期を報告した――ここまでは確かなこととされています。寺にとっては、旧知の檀家の当主が斬られたという報せが、その家の少年の口から直接もたらされた出来事でした。

遺族の証言も、埋葬説を支えません。銀介は大正年間まで生き、三室村の村長まで務めましたが、首級のことは生前ひとことも語らなかったと家族が口をそろえています。子の教介氏は「父は生前そのことを語らず。恐らくは為にするものの所謂ならんか」と述べました。酒が入れば泣いて小栗家のことを語った人が、この一件だけは話題にしなかったのです。

首塚はいつできたか

普門院の境内には、首級を埋めたとされる自然石の塚があります。専修大学の白柳夏男氏が「小栗上野介遺聞」(『専修商学論集』第四三号、1987年3月)で綿密に調査した結論は、こうでした。

  • 一、自然石の塚は昭和九年(1934)春、小栗貞雄氏が建立したもの。

  • 二、それ以前は土饅頭であり、その土饅頭も昭和七年五月以降、八年五月までの間に造られた。

  • 三、それ以前は、そこには何もなかった。

同じころ、招魂碑の裏面に蜷川新が撰文を寄せ、碑面の題字は徳川家達が揮毫しました。その文中には、山内に伝わるところによれば首級は正しくここに埋められた、という意味のことが記されています。碑が建ち、要人が参拝し、新聞が報じる――その積み重ねが、話を定着させていきました。

なお、普門院は小栗家中興の祖・又一忠政を葬る寺ですが、その後は分家の小栗仁右衛門家の領地となってその菩提寺となっており、本家である上野介の家の菩提寺は牛込横寺町の保善寺であることが『寛政重修諸家譜』に明記されています。「菩提所たる普門院」という前提自体にも、注意が必要です。

影響は文学にも及びました。井伏鱒二は『正伝』に拠って短編「普門院さん」(昭和二四年)を書き、そこには首塚の話と「普門院は小栗上野介家の菩提寺」という二つの記述が含まれていました。しかし昭和五三年六月に権田を訪れ、村内に二泊して取材調査した井伏は、四十年近くを経て書き直した「普門院の和尚さん」(昭和六三年)で、この二項を削除しています。

十六歳の少年が、主君の死をただ一人生き残って報せて回った――確かめられるのはそこまでです。それでもこの逸話が長く語り継がれてきたのは、取り調べも審問もないまま斬られた主君に、せめて誰かが最後の務めを果たしたのだと信じたい気持ちが、権田にも大宮にもあったからでしょう。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』

→ 武笠銀介 ― 主君の首を守ったとされる若者 / 館林、首級奪還の一夜