慶応四年閏四月六日、烏川の水沼河原で斬られた小栗忠順の首級は、権田には戻されませんでした。翌七日に高崎で斬られた養子・又一忠道の首とともに首桶に納められ、強い酒精に漬けられて、館林へ送られたのです。この一年後、旧領の百姓たちが、それを取り返しに行きます。
首実検、そして法輪寺へ
当時、東山道総督府は館林にありました。首実検にあたった総督岩倉具定は岩倉具視の三男で、まだ十七歳。副総督である弟も十五、六歳の少年です。実検はごく形式的で、ひと目見ただけで済みました。そのとき「上野介は任官した程の者なれば丁重に扱えよ」と言葉が添えられたと伝わります(「よきに計らえ、取り捨てよ」だったとする説もあります)。
父子の首級は館林藩の祈願寺・泰安寺の住職恭順に下げ渡されましたが、同寺には墓地がありません。そこで親しい奥田明山和尚が住職をつとめる加法師の法輪寺に預けられ、境内墓地の杉の大木の根もとに葬られました。明山は首を桐箱に焼酎詰めにし、その上に十数個の石を乗せて埋めたと伝えられます。
夫人を会津へ送り届けてから
権田の人びとは、まず生き残った家族を守ることに力を尽くしました。身重の道子夫人と母堂を護衛して重囲を脱し、越後から会津若松城へ。砲煙弾雨のなかで佐藤銀十郎・塚越富五郎を失いながらも護衛の任を果たし、明治二年の早春、ようやく江戸へ戻って、夫人を実家の建部家へ、母堂を静岡へ送り届けました。その帰国の直後に、彼らは次の仕事に取りかかります。
小栗が生前、淋しく笑って言ったという一言が、権田の人びとの胸に残っていたといいます。
わしは桜田門の二の舞をやるか知れぬが、まあ首だけは肩から離れたくないなぁ
首は館林、胴は権田と下斉田。身首ところを異にするのは忍びない――中心になった中島三左衛門は、野州高橋村の名主人見宗兵衛のもとを訪ね、襟を正してそう切り出しました。宗兵衛も、自分もその決心はしていたが一人の力ではどうにもならず今日に至った、と答えて、ただちに同意します。
一度目は失敗した
最初、三左衛門は一人で墓を掘りました。しかし目的を果たせません。法輪寺は翌朝、墓が掘られているのを見つけて驚き、藩庁に届け出て元通りに直し、墓地に防備を施して警戒を強めました。
そこで一同は、宗兵衛の伯父で館林町の事情に通じ藩庁にも出入りしていた邑楽郡新当郷村の渡辺忠七に実情を打ち明けます。忠七も熱意に動かされて加わり、館林町の田部井某の同意も取りつけました。三左衛門は人目を避けて宗兵衛の家の一室に潜伏し、塚越房吉(房五郎とも記されます)は変装して館林の町に出て様子を探ります。
そのうえで一同は、小栗父子の石塔を建立したいという名目で法輪寺を訪ね、住職に面会して願い出ました。住職はその意を諒として、藩邸へ許可を申請しています。一説には、父子の身首を一つにしたいという願いを熱誠をこめて語ったところ、住職が大いに感動して窃取を黙認したのだ、とも伝わります。
当時の館林町は、一面が城郭と池沼で、出入口の街角には番所が置かれていました。夜分に異様な風体で番所の前を通ることは、困難だったといいます。
一周忌の夜
決行の日は、小栗の一周年忌辰にあたる四月六日と定められました。万事は忠七の指揮のもと、道路は通らず、柵を破り、溝渠を歩いて渡って法輪寺の墓地に入ります。宗兵衛と稲岡政五郎が警戒に立ち、三左衛門と房吉が掘りました。
ところが、防備のために古石塔数十本が縦に埋め込まれていて、発掘は思いのほか難航します。それでも二人は「畢世の勇」を鼓して十有余尺を掘り抜き、ついに二個の首桶を掘り当てました。
倉皇蓋を開くに酒気鼻を撲つ、星光に熟視するに慥かに上野介父子の首級なり。酒精に漬けありしため、一ヶ年を経過したるも只切断口は青色を帯びたるのみにて、毫も腐蝕せざるを以て悪臭等は発せざりき
早川桂村の記録(小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』所引)
用意してきた新調の飯櫃に真綿を敷いて首級を移し、風呂敷に包み、房吉と政五郎が一個ずつ背負って、忍び入った場所から忍び出ました。三人はそのまま日光街道に出て走り去ります。
後始末
翌朝、法輪寺は大騒ぎになりました。墓は掘り返され、その上に二つの空の首桶が置き去りにされていたのです。奥田明山和尚はただちに藩庁へ届け出ます。藩役人が出張して実地検分しましたが、誰の仕業かを記した記録は残っていません。旧采地の領民が石塔建立を願い出ていたことは住職への聞き取りで判明したものの、犯人を断定する証拠が残されていませんでした。
明山は、寺の境内から盗掘されたのは怠慢であるとして百日の謹慎を申し付けられ、謹慎が解けたあとは新田郡木崎町の大通寺、さらに栃木県安蘇郡上多田の慈雲寺へ移って、明治三十一年七月に同寺で亡くなりました。墓碑建立を願い出た渡辺忠七も盗掘の嫌疑で召喚され入牢しますが、甥の人見宗兵衛の懇請により、石塔建立を願ったのみで窃取には関係がないことが明らかとなり、係りの塩谷某と田部井某の尽力で出牢できました。藩庁も、三左衛門や宗兵衛の衷情を察して深くは追及しなかったようです。
権田へ、そして観音山へ
又一忠道の首級は下斉田の名主・田口家へ運ばれ、その胴と一つになりました。忠順の首級は馬の背に載せられ、はるばる権田へ入ります。権田では中島三左衛門の家の床の間に安置され、村の関係者だけが秘密に拝んだと伝わります。
それから、三左衛門の観音山通いが始まりました。山の下に住む機織りの老婆が何をしているのかと尋ねると、三左衛門は「お殿様に供えるのよ」と赤飯を見せたといいます。それが半年ほど続いたあと、ぱったり来なくなりました。道で会って尋ねると「もうないよ」と笑って通り過ぎたそうです。大坪元治氏は、東善寺の胴塚の下に首級を埋めたのはこのころではないか、と見ています。
なお、この首級の行方については別の説もあります。阿部道山氏は、従者の武笠銀介が首級をひそかに運び、菩提所である大宮の普門院の小栗家歴代の墓に埋葬したと記しています。これに対して大坪元治氏は、銀介が普門院へ報告に走ったことは確かだが首を持って行った確証はまったくない、大正年間まで生きて三室村の村長までつとめた銀介が生前ひと言もそのことを言わなかったと遺族も語っている、としてこれを否定しています。
仁義併存碑
この一連の働きは、東善寺境内の仁義併存碑に刻まれました。碑文はこう結ばれています。
帰郷後直ちに旧主の遺志を奉じて苦心焦胆、遂に父子の首級を館林に得て遺骸を全からしめたる功績は、単に郷党の誇りたるのみならず、上毛人士一片の義気凛然以て千載に伝うるに足る
小栗が権田に入ったのは慶応四年三月一日。身首ところを異にした遺骸が一つに戻るまで、ちょうど一年でした。滞在はわずか二カ月あまりでしたが、その短いあいだに築かれた信頼が、村人たちをここまで動かしたのです。
典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』(早川桂村の記録、『館林・邑楽の歴史』を所引)/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年
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