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会津へ従った十七人

名簿に残っているのは、ほとんどが名前だけの人たちです。

慶応四年閏四月三日、小栗忠順は東善寺の寓居に家臣と村役人を呼び集めました。嗣子・又一は前日から高崎の総督陣営へ向かい、三藩の兵は村に迫っています。その席で小栗は、母・邦子と妻・道子を逃がす段取りを決めます。

家族の保護は大任である。わしはその任を中島三左衛門に託したい。同人は村民特に若者たちの信望も厚く、且つ沈勇にして胆力がある

三左衛門は権田宿で屋号を「山三」という酒造家の当主、村の組頭・百姓代をつとめた五十三歳。小栗が金庫から出した路銀のうち八百両が、この人の手に渡ります。三左衛門は身重の道子の付き添いに自分の娘・さい(十七歳)を選びます。危急のときには身代わりにもなれる、という人選です。

名前の残っている人たち

大坪指方・穂積驚『小栗上野介』が挙げるのは、次の十七名です。

  • 中島三左衛門 のちに誉田(ほんだ)と改める。一行の筆頭

  • 佐藤銀十郎 / 塚越房吉 / 桂助

  • 源忠 忠順の「忠」の一字をもらった名だと伝わります

  • 寅吉 福弥 卯之助 龍作 民吉 友吉 彦太郎 亀吉 定吉 三津五郎 増吉 富吉

ほかに召使いの女性が二人、供をしたとあります。この名だけの人々に姓を補ったのが、小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』です。同書によれば、桂助は長井の萩原桂助、龍作は小高の佐藤龍作、源忠は押平の塚越源忠、富吉は塚越富五郎、寅吉は大井寅吉、卯之助は前村の卯之吉。副隊長格には中沢兼吉(四十六歳。小栗と共に斬られた大井磯十郎の兄)、先導役には吾妻から信州までの地理に明るい池田伝三郎(二十三歳)が就きました。東善寺の「仁義併存之碑」には、護衛に加わった二十名と義挙を支えた村人の名が刻まれています。

いずれも、小栗が歩兵として訓練してきた青年たちでした。小栗は慶応以前から、名主・佐藤藤七に命じて村の子弟を毎年数人選び、江戸駿河台の屋敷に住まわせています。昼は屋敷の務め、夜は塚本真彦らから初歩の数学や英語を教わる。幕府の軍制改革が進むと、彼らはそのまま「小栗家歩兵」としてフランス式の調練を受けました。三月の三ノ倉の襲撃を撃退したのもこの人たちです。二か月前まで畑を耕していた村の若者が、幕府の元勘定奉行の家族を託されました。

主君の最期を見届けてから

一行は三日のうちに東善寺を出て、上ノ久保の池田民吉宅、ついで亀沢へ身を移します。閏四月六日の未明、討伐の兵が村に入りました。三左衛門は農夫のなりに変装して人夫にまぎれ込み、水沼河原で主君が斬られるのを見届けています。そのうえで隠れ場所へ駆け戻り、間道から吾妻郡入山村を目指しました。

矢竹の村はずれで、一行は二手に分かれます。二十余名が固まって動けば人目につくからです。道子には三左衛門・佐藤銀十郎・中沢藤太郎・佐藤龍作・塚越源忠がつき、最短の須賀尾峠を越えて和光原へ。母・邦子(六十歳)と又一の許婚・日下鉞(十四歳)は、池田伝三郎・塚越富五郎・萩原五平次らと中島さいに守られ、万騎峠から狩宿・今井・日影と、およそ十里を迂回しました。

広池村に着いたのは、夜通し歩いた翌日の午前十時ごろ。名主・山本市兵衛の家で馬を借り、四里先の和光原へ向かいます。桑を摘んでいた市兵衛の嫁は、「一人の立派なお姫さまが、侍にもたれかかるように、やっと歩いて来た」と後年まで語り伝えました。

十日町で路銀が尽きる

二組は和光原で落ち合い、長野原、和山温泉、越後の秋山を経て十日町へ。ところがここで路銀が尽きました。三左衛門は塚越房太郎と中沢兼吉に、権田へ戻って三百両を調達するよう命じます。二人は善光寺詣りの姿で信州路を戻りますが、渋の宿で松代藩士に捕らえられて三日間抑留され、村に着いても金策の返事は得られませんでした。

五日待った一行は堀之内村で邦子の組と合流し、新潟へ出ます。新潟は、小栗の父・忠高が奉行を務めた土地です。蒲原郡水原の陣屋で留守居役・秋月真次郎に事情を告げると、会津から駕籠三挺と馬一匹が迎えに来ます。会津では老臣・石沢頼母の計らいで、藩士・横山主税の邸に身を寄せました。遺児クニ子が生まれたのは、この先の籠城のさなかです。

会津軍に身を投じた二人が、帰らなかった

任を果たした若者たちは、村へ帰りませんでした。閏四月十四日、佐藤銀十郎を先頭に十名ほどが反里口を発ち、会津領浅貝の陣屋に郡奉行・町野源之助を訪ねます。会津藩以外の者で編成された朱雀四番士中隊附属の誠志隊に加わり、三国峠や大般若坂で戦います。

塚越富五郎(二十三歳)は八月末、阿賀川沿いの一竿(現・喜多方市高郷)の渡し場で胸を撃ち抜かれます。『会津戊辰戦史』は「富吉は徳川氏の世臣小栗上野介忠順の臣なり」と記しました。佐藤銀十郎(二十一歳)は九月、熊倉の戦いで倒れます。三月の権田の戦いで、小栗が日記に「今日の戦に歩兵銀十郎義ハ頗る奮戦致し遂に四人打取」と書き留めた射撃の名手でした。その墓は喜多方市熊倉の光明寺共同墓地に残り、「本国上野 佐藤銀十郎信一墓」と刻まれています。

そのあと

明治二年の春、一行は会津を発ちます。川船で江戸に着いてみると、徳川家はすでに静岡へ移ったあとでした。三左衛門は静岡まで付き添い、又一の弟に仮に小栗家を継がせる話をまとめました。主家を再興して、はじめて託された任が終わりました。

帰村した三左衛門らは、この地を鎮撫していた前橋藩庁に召し出されます。事情を聞いた役人は、こう申し渡しました。

汝等は小栗の臣下にあらず、只知行所の村役人と百姓たるに過ぎざるに、身命を賭して其の地頭の為に尽せる赤誠は累代食禄を食む家臣と雖も遠く及ばざる所なり

そのうえで「苗字中島を改めて誉田と称すべし」との命を受け、三左衛門は誉田三平次と名を改めます。村へ戻ったときの彼らの姿は乞食同然だったと言い伝えられています。休む間もなく、三平次は館林へ主君の首級を取り返しに向かいました。

名簿のなかに民吉という名があります。上ノ久保の「紙屋」池田民吉のことです。その娘のかよは、先導役をつとめた池田伝三郎の許婚でした。かよは九十歳を過ぎてから、権田で見た小栗一家の様子を語り残します。奥方の姿も屋敷の女性たちの数も、この人の記憶を通して今日に伝わっています。父と許婚が会津へ発ったとき、かよは十七歳でした。

その後の生涯が分かっているのはごくわずかです。それでも名前が残っているというだけで、この人たちは「村人二十余名」という一行から一人ひとりに戻ります。

典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年(名の表記は同書にしたがいました)/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇――小栗夫人等脱出潜行、会津への道』あさを社/早川桂村「小栗夫人の権田脱出とその後の小栗家」(『上毛及上毛人』大正十二年一月、『倉渕村誌』所収)/会誌『たつなみ』。

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