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御番入りと初出仕

十七歳での初登城から、二十一歳での御番入りまで。旗本としての公的な勤めが始まります。

旗本は、将軍に御目見得できる家格を持つ幕臣ですが、生まれながらに役職を持っているわけではありません。当主となる予定の子弟は、まず初登城を果たして正式に幕臣として認められ、そのうえで御番入りを経て、はじめて幕府の勤めに携わります。忠順もこの順序を踏みました。

初登城 ― 香港が奪われた翌年

天保十四年(一八四三年)三月二十三日、忠順は江戸城に初めて登城しました。黒書院で御目見えをし、太刀目録・銀・馬代を献上しています。満十六歳になりたての春でした。

この年は、イギリスがアヘン戦争の結果として香港を奪い取った翌年にあたります。忠順の誕生のころに出されていた「異国船無二念打払令」は、前年の天保十三年に廃止されていました。もはや「打払う」ことは事実上不可能だったのです。

二十五歳の首座のもとで

忠順が出仕することになったころ、老中首座にあったのは阿部正弘でした。福山藩一〇万石の藩主から奏者番、寺社奉行と進み、天保十四年に老中、翌年には老中首座。まだ満二五歳の「首相」です。弘化二年(一八四五年)には幕府組織を改革して海防掛を新設し、みずから陣頭指揮にあたりました。この年の七月には、忠順の父・忠高も御留守居番に昇進しています。

海防掛新設の二年後、弘化四年(一八四七年)は、外では異国船の渡来と上陸騒動、内では農民の窮乏と一揆の続発という年でした。阿部正弘はこの年二月、相模の海岸警備を彦根・川越の両藩に、房総の海岸警備を会津・忍の両藩に命じています。忠順が城中に召されたのは、その二カ月後でした。

御番入り ― 弘化四年四月十六日

記録には、こう残されています。

芸術出精の段、御聴に達し、部屋住みより召出され、両御番の内、御番入り仰せ付けらる。並の通り、切米三百俵下しおかれ候旨、菊之間縁頬において、御老中御列座、戸田山城守殿仰せ渡し、西の丸御書院番、秋田淡路守組入り ……

短い文面に、当時の制度がぎっしり詰まっています。坂本藤良氏の注釈に沿って読み解いておきましょう。

  • 芸術出精――音楽や絵画のことではありません。「学芸・武術」を略して「芸術」と言いました。学問と武芸に精を出したことが、老中の耳に届いたという意味です。

  • 御番入り――旗本の子弟が御小姓組あるいは御書院番組に編入されること。忠順の場合は後者、御書院番組でした。

  • 切米三百俵――切米は今日でいう給料です。旗本の給与には、土地(知行地)をあたえられる知行取と、現物の蔵米を支給される切米取の二種類がありました。上級者は主に前者。忠順はまだ新規お召し出しなので後者で、三〇〇俵が支給されました。

  • 菊之間縁頬――縁頬は畳廊下のこと。同じ菊の間でも、身分によって座敷に坐るか、畳廊下に坐るか、板敷廊下に坐るかが分かれました。

  • 西の丸――江戸城本丸の西側の殿舎で、本丸には将軍が、西の丸には前将軍または将軍の嫡男が住みます。

大坪元治氏は、御番入りを、旗本の子弟のうち優秀な者を抜擢して登用する制度であり、登龍門であったと記しています。このとき忠順は満二十歳。辞令を伝えたのは老中列座のもと、戸田山城守でした。

ひづめの音で分かった登城

忠順は、馬に乗って登城しました。江戸末期には登城は駕籠か輿が普通になっており、馬に乗れない武士が増えていました。八代将軍吉宗がすでに、側近の武士のなかに馬に乗れない者がいると嘆いているほどです。やっと乗れても前にも後にも動かせない、という侍も少なくありませんでした。だからこそ、忠順の馬術は目立ちました。

登城の道筋、神田橋御門の近くに蜷川家の屋敷があり、その侍長屋にいた森山休平という人物が、のちにこう証言しています。

ひづめの音で、あ、あれは小栗殿の登城だとはっきりわかりました

乗馬の腕は記録にも残っています。嘉永二年(一八四九年)三月十八日には下総での御鹿狩で活躍し、安政二年(一八五五年)五月二十一日には吹上御庭の馬揃で早乗を上覧に供しました。大坪元治氏の年譜は、忠順が諸般の武術を好んで修業したなかでも、馬術がもっとも得意とするところであったと記しています。弓も同様で、嘉永元年(一八四八年)十月二十日、江戸城山里丸の御庭での弓術上覧では大的に皆中し、時服を賜りました。

御番入りの翌年、世界が動く

忠順が御番入りした翌年の嘉永元年(一八四八年)、世界は一大転換をとげつつありました。ヨーロッパでは二月革命と三月革命が起こり、カール・マルクスが『共産党宣言』を発表します。そしてアメリカでは、メキシコとの戦争で割譲を受けたばかりのカリフォルニアで金鉱が発見されました。ゴールド・ラッシュが起こり、田舎の小さな町だったサンフランシスコがみるみる大都会にふくれあがります。十二年後、忠順はその港に上陸します。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

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