嘉永年間、忠順は建部政醇の娘・道子と結婚しました。建部政醇は播州林田藩一万石の藩主(内匠頭)。忠順が十四歳のとき、その屋敷で年長の藩主と対等に議論を交わして評判になったという逸話が伝わる、あの建部家です。
建部という家
建部家は、戦国時代に近江箕作城主だった家柄で、はじめて徳川家に仕えた丹波守政長は、老中・酒井讃岐守忠勝が婿とした人物です。日本武尊の直系と称される名家でもありました。江戸の屋敷は神田明神下に上屋敷、本所に下屋敷。道子の妹は、室町時代以来の名家である旗本六千石の蜷川家に嫁いでおり、その子が、のちに小栗の死の真相を追及する国際法学者・蜷川新です。
忠順が十四歳で政醇と渡り合った場面を、旧林田藩士が蜷川新に語り残しています。「初めて建部家の客となりて来邸せられし折、恰も其の挙動全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応接堂々として既に巨人の風あり、未だ十四の少年にてあり乍ら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ一問一答を建部政醇藩主と応答し、人皆其高慢に驚き乍ら、後世には如何なる人物となられるであろうか、と噂し合った」。天保十二年(1841)のこと。このとき道子は、まだ二歳でした。
婚礼の時期をめぐって
正確な婚礼の日付を伝える史料は見つかっていません。年齢についても、資料によって記述が分かれます。
嘉永二年(1849)説 忠順二十三歳。まだ十一歳の綾姫が、許婚者のような形で小栗家へ輿入れしたとする見方です。
嘉永七年(1854)前後説 道子が十五、六歳より前に嫁ぐとは考えにくいとして、忠順二十七、八歳のころとする見方です。
確かなのは、忠順が文政十年(1827)、道子が天保十年(1839)の生まれで、ちょうど十二歳の年齢差があったこと。奇しくも、忠順の父・忠高と母・国子も同じ十二歳違いでした。
忠順の側の事情も分かっています。天保十四年三月二十三日、十七歳で初登城し江戸城黒書院にてお目見得。弘化二年四月、二十一歳で番入りして西丸書院番となり、切米三百俵を得ます。そして嘉永元年(1848)十月二十日、江戸城山里丸の御庭で弓術の上覧をつとめ、大的にことごとく命中させて時服を賜りました。同じような記録は嘉永五年三月二十五日にもあります。役職と面目が整い、身を固めるべき時期に差しかかっていました。
なお、嘉永三年正月から始まる家計簿には、その最初の月から「於綾」という名が現れ、以後毎月、一分から二分の小遣いが支出され続けます。この「於綾」が道子その人なのかどうかは、研究者のあいだでも見解が分かれてきました(→ 「於綾」は誰か)。
「衣通姫」と伝わる美貌
道子は小柄で、美貌の持ち主だったと伝わります。「衣通姫」とうわさされたといいます。衣通姫とは、古代の伝説的な美女にちなむ言葉で、その使われ方には二通りの解釈があります。十二単衣を着ていても、すべてが透けて見えるほど美しい、という意味。もうひとつは、何ひとつ身にまとっていなくとも、盛装した女性よりはるかに美しさが際立つ、という意味です。
「駿河台の衣通姫」と呼ばれた気品と美貌は、幕府が倒れたのちも語られ続けました。維新後、道子が深川の三野村邸に身を寄せていたころ、明治初期の顕官たちがしきりに近づこうとして困った、という話まで残っているほどです。そして夫婦は、鴛鴦も羨むほど睦まじかったと伝えられています。
付人として来た塚本真彦
この縁組によって小栗家に移ったのは、道子ひとりではありませんでした。塚本真彦――天保三年(1832)江戸生まれ、道子より六歳年上で、建部家の江戸上屋敷に小姓兼道子の付人として仕えていた男です。忠順は道子とともにこの付人をも所望し、建部家は惜しい家臣を娘のために譲り渡しました。真彦は父を早く亡くしており、母のまきと二人で建部家から小栗家へ移り住んでいます。
政醇が見込み、その忠順がまた見込んだ真彦は、給人からのちに用人(家老級)へと進みました。万延元年の遣米使節では、二十九歳の給人として忠順の随員九名のうちに選ばれ、渡米しています。そして慶応四年、権田村まで一家六人で付き従い、小栗とともに命を落としました。三月の道子の帯祝いで岩田帯を締める役をつとめたのも、この真彦の母・まきです。建部家から嫁いできた縁が、最後の日まで続いていたのです。
結婚後の家計簿
結婚後の小栗家の暮らしぶりを伝える資料が、家計簿です。嘉永三年(1850)の正月から記帳が始まり、全四冊が現存しています。表紙には「量入制出簿」――入るを量りて出ずるを制する帳簿――と記され、同じ表紙に「纔有梅花堂主人」(わずかに残る梅の花の家の主人)という号が添えられていました。この年の正月、忠順はまだ満二十三歳の誕生日すら迎えていません。単なる記録ではなく家計を管理するという意図が、表紙の一語から読み取れます。旗本が自分で家計を記録していること自体も珍しいことでした。
第二冊は安政五年(1858)に飛びます。そこには「一金壱両壱分 御母様小遣」「一金壱両壱分 於道同断」と、母・国子の分と道子の分が常に並んで記載され、この書き方が文久三年十二月まで、家計簿の続く限り変わりません。日々の買い物から祝儀、季節ごとの行事にかかる費用まで、旗本家の実際の暮らしが数字として残されており、群馬県の重要文化財に指定されています。
道子はのちに、自らしたためた書状のいくつかに「美千」と署名しています。明治十八年三月二十七日、四十七歳で世を去り、臨済宗大雄山海禅寺の建部家の墓に葬られました。生家の墓に戻りました。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』
→ 十四歳、建部邸での大議論 / 暮らしと家計簿 / この家計簿に毎月あらわれる「於綾」は誰か / 小栗卍教 ― 側室の子と伝わる僧