天保十一年(1840)ごろ、十四歳になった忠順――当時の名は剛太郎――にまつわる逸話が伝えられています。建部内匠頭政醇の屋敷を訪ねた際、当主を相手に物おじせず議論を交わし、それが評判になったというものです。
訪ねた先は、どういう家だったか
建部家は、播州林田藩一万石の領主です。石高こそ小さいものの、家柄は別格でした。戦国時代には近江箕作城主であり、はじめて徳川家に仕えた丹波守政長は、老中・酒井讃岐守忠勝が婿に迎えたほどの家です。坂本藤良氏は建部家を「日本武尊の直系と称される名家」と記しています。政醇の妹は、室町以来の名家で旗本六千石の蜷川家に嫁いでいました。屋敷は神田明神下にありました。
当主の政醇――隠居してからは聖岡と号します――は、「才人の聞こえ高い武夫」と評された人物でした。二千五百石の旗本の、まだ御目見得も済ませていない少年にとって、格の上でも年齢の上でも、およそ対等に渡り合える相手ではありません。
煙管を叩きながら
ところが、その場に居合わせた人々が驚いたのは、この少年の態度でした。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、その様子をかなり具体的に伝えています。
忠順は臆した気振りをいささかも見せず応対し、しかも煙草をくゆらし続けていたといいます。煙草盆に煙管を強く叩きつけて吸殻を落とし、すぐにまた煙草を詰め替える。その所作が大人そのものであっただけではありません。相槌の打ち方、話の聞き方がうまかったのです。一たび自分が話し出すと、内容が豊富で、理路整然としている。話すときの瞳には輝きがあった、と書かれています。
大人びた口をきく子どもは、いつの時代にもいます。けれども忠順の場合は、その中身を「すっかり自分のモノにしていた」のだと同書は言います。坂本藤良氏も、忠順が政醇と丁々発止の議論をして、決して負けていなかったと伝え、居合わせた建部家の人々が「この少年、将来どんな人物になるか」と噂し合ったと書いています。
栗本鋤雲が語った少年像
この場面は、忠順の少年時代についてほかに伝わる人物評とよく重なります。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、栗本鋤雲の遺談として、幼い頃の忠順をこう伝えています。ふだんは並の子どもと変わるところがなかったが、執拗剛愎、俗にいう「意地っ張り」であった。ただし悪戯にかけては群童の頭に立ち、餓鬼大将の覇権を握って衆を駆使する力があった――。
年長者を相手に一歩も引かなかった建部家での態度は、この気性の延長線上にあります。同書はまた、この十四歳の年に、砲術の同門であった結城啓之助という年長者との交わりを通じて時勢の議論に触れ、ふだんの態度が変わったとも伝えています。天保十一年は、高島秋帆が海防に関する上書を提出した年でもありました。
逸話の位置
この逸話が置かれている時期を確かめておくと、忠順の重みがはっきりします。彼が初めて登城し、黒書院で将軍に御目見得したのは天保十四年(1843)三月二十三日、十七歳の春のことでした。建部家での一幕は、その三年も前の出来事です。公の場にはまだ一度も出ていない少年が、一万石の大名と対等に論じ合っていたことになります。
少年期の忠順は、屋敷内にあった安積艮斎の塾で漢学を学び、八歳ごろから剣術・柔術・砲術の修行を始めていました。同じ塾には、のちに生涯の盟友となる栗本瀬兵衛(鋤雲)がいます。忠順はその五つ年下でした。議論の場で臆さなかった素地は、こうした日々のなかで育っていたのでしょう。
大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、この逸話についてひとつの推論を加えています。もしこのとき政醇が忠順に「小生意気な」「増長慢奴」といった悪印象を受けていたとしたら、後年の縁談が生まれる訳はない――。忠順はのちに政醇の娘・道子を妻に迎えることになるからです。少年時代の一場面が長く語り継がれてきた理由は、この後日談にあります。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年
→ 建部道子との結婚
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