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あばたと近眼、実像の小栗少年

体は決して丈夫でなかったと伝わる少年時代。それでも周囲を統率する気の強さがあったといいます。

小栗忠順は文政十年(一八二七)二月十二日、江戸駿河台の邸で生まれました。初名は剛太郎。父の又一忠高は御小姓組で、このとき三十歳。母のクニ子は、先代・又一忠清の長女です。大坪元治氏の年譜は、この年の出来事として頼山陽『日本外史』の完成を並べ、のちの政敵となる西郷隆盛や、遣米使節にかかわることになる中浜万次郎がほぼ同じころ生まれたことを書き添えています。

あばたと近眼

成長した忠順の顔には、一面にあばたがありました。疱瘡(天然痘)にかかったためです。何歳のときにかかったのかを記した記録はありません。当時の疱瘡は生命にかかわる重病で、命はとりとめたものの、生涯消えない跡が残りました。

坂本藤良氏は、その風貌をこう書いています。小柄で、近眼で、あばたがあって、後年の写真を見てもおせじにも美男子とは言えない。額が広い――。はげ上がっているようにも見えるが、おそらくそうではなく、少年時代からそういう顔立ちだったのだろう、とも記しています。

この顔立ちは、大人になってからの記録にも確かに残っています。万延元年の遣米使節に随行したアメリカ海軍のジョンストン中尉は、三十四歳の小栗をこう書きとめました。

「小栗豊後守は、確かに一行の中で最も敏腕な、最も実際的な人物であった。(中略)彼は四十位の年配で、小男であったが、骨相学上より判断すれば、優れた知的頭脳の人であった。少しばかり痘痕のある彼の顔は、智力と聡明とで輝いていた」

三十四歳が「四十位」に見られたというのも、顔の印象と無関係ではなかったかもしれません。幕末に幕議の場で小栗を目撃した者の証言も、同じ像を伝えます。「色黒くあばたの小男、余り風采は揚がらないが、眼光烱々として人を射し、その一文字に結んだ唇が一度開くと見るや、音吐朗々、論理また整然」――。

兄弟のいない子ども

少年時代の忠順については、残されているエピソードが少ないのですが、家族構成ははっきりしています。満六歳のとき、たった一人の妹を失いました。天保五年(一八三四)一月のことです。ほかに兄弟はいません。

その同じ年から、忠順は塾に通いはじめます。といっても塾は小栗屋敷の長屋にありました。当時一流の学者・安積艮斎の塾です。艮斎はここで日本中に名を知られるようになり、のちに昌平黌教授に迎えられたあとも、貧窮時代に小栗家から受けた恩を忘れず、万延元年に没するまで屋敷内の塾を閉じませんでした。門弟には栗本鋤雲、川路聖謨、高杉晋作、岩崎弥太郎、中村敬宇、神田孝平、福地桜痴らが名を連ねています。もっとも、幼い忠順に直接教えたのは、高弟の森田禎介と庫石典太であったとみられます。

この塾で、忠順は五歳年上の栗本瀬兵衛(のちの鋤雲)と知り合いました。兄弟のいない少年にとって、この出会いは大きかったはずです。二人の友情は生涯変わりませんでした。

武芸の修行も同じころ始まります。剣術は新陰流の男谷下総守信友に学び、のち藤川整斎に就きました。砲術は和流の田村至計に学んでいます。

「意地張」と餓鬼大将

その栗本鋤雲が、幼い日の忠順についてこう語り残しています。

幼少のころより根が病身のようで尋常ではなかったが、俗にいう「意地張」であった。それでも悪戯にかけては群童の頭に立ち、餓鬼大将として衆を駆使する力があった。

栗本鋤雲の遺談(大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』所載)

体は丈夫でなく、小柄で、近眼で、顔にはあばたがある。それでも子どもの群れの先頭に立っていた――という像です。坂本藤良氏は、わずかなエピソードから読み取れる気質として、一本気であること、理解力が抜群で好奇心が人一倍強いこと、小柄だったせいか負けん気が強いことを挙げ、そのうえで「にもかかわらず、ものごとに執着しない」と付け加えています。くどくど言うのを嫌う性分は日記に出ていて、毎日の記述はほとんど二、三行、簡潔このうえない。後年、何度も辞表を出すのも、そのこだわりのなさのあらわれだろう、というのです。

十四歳、煙草盆を打って論じる

大坪元治氏の年譜は、天保十一年(一八四〇)、十四歳の忠順について一つの逸話を伝えています。播州林田一万石・建部家に客として招かれた折、藩主と向かい合って煙草をのみながら、煙草盆を打って談論し、藩臣たちを驚かせたというのです。十四歳の旗本の子が、一万石の大名を相手に議論をやめなかった場面です。この建部家から、のちに忠順の妻となる道子(お綾)が嫁いできます。

同じ年譜は、砲術の同門に結城啓之助という年長者がいて、その交わりを通じて当時の国論に感化されたとも記しています。高島秋帆が海防についての上書を出したのがこの年で、翌年には蛮社の獄にかかわる事件が続き、天保の飢饉と大塩の乱の記憶もまだ新しい時期でした。

天保十四年(一八四三)三月二十三日、十七歳の忠順は初めて登城し、黒書院で太刀・目録・銀・馬代を献じて初御目見得を済ませます。そして弘化四年(一八四七)四月十六日、「芸術出精の事」を理由に部屋住から召し出され、西丸御書院番・秋田淡路守組に入り、切米三百俵を下賜されました。旗本の子弟から優秀な者を抜擢して登用する、いわば登龍門にあたる人事です。あばたの餓鬼大将は、ここから幕臣としての道を歩き出しました。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(ジョンストン日記の引用を含む)

→ 安積艮斎の塾 → 剣術・柔術・砲術の修行と小栗流 → 建部家からの縁組 → 栗本鋤雲