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遣米使節手当で大黒字になった年の家計簿

世界一周の旅は、家計にも思わぬ潤いをもたらしました。

小栗上野介忠順は、自分の手で家計簿をつけていました。四冊が現存し、嘉永三年(1850)から文久三年(1863)まで、十年分の収支がわかります。この帳簿を年ごとに追っていくと、ある年だけ数字の桁が違うことに気づきます。安政六年(1859)、一年の差引残高が一千五百六十三両。遣米使節の手当金が、十二月に千両まとめて渡された年です。

『量入制出簿』

第一冊の表紙には『量入制出簿』と題されています。「入るを量りて出ずるを制す」――収入を見きわめて支出を抑える、という意味です。単なる記録ではなく、家計をコントロールするという目的がはっきり示されている、と坂本藤良氏は指摘しています。表紙にはもう一つ「纔有梅花堂主人」(わずかに残る梅の花の家の主人)とも墨書されていました。書きはじめた嘉永三年の正月、小栗はまだ満二十三歳の誕生日を迎えていません。

中を開くと、まず前年からの繰越残高が記されます。

去酉年残金 金三拾四両ト銭九百八十二文

小栗家の禄は切米三〇〇俵。幕府からの給料は年三回、二月に四分の一、五月に四分の一、十月に二分の一が支給されました。米で渡される分と現金化される分があり、十月の一五〇俵は手取り金七十七両となっています。帳簿の最初の年、三季を合計した収入は金百五十一両一分。これに対し支出は年間九十九両あまりで、差引残高は五十両ほどでした。

赤字の年、黒字の年

第二冊は『勝手方勘定帳』と題され、安政五年正月から始まります。この年の決算は赤字でした。

差引 不足金壱両三分三朱ト銭百四拾壱文

ところが翌安政六年の末には、前年の赤字を差し引いてもなお、こう記されています。

金残 千五百六拾三両壱朱ト銀四匁九分三厘

前年の五十倍以上、通常年の収入の十倍にあたる残高です。理由ははっきりしています。十二月に入って「亜米利加行手当金千両」が渡されたためでした。遣米使節の出発は翌万延元年正月十八日。旅立ちの直前に、まとまった支度金が家に入っています。

第三冊『勘定帳』は、その安政七年(万延元年)正月から。書き出しは「正月十二日 一金八拾九両一分 米払代」。渡米の年そのものは、年末の繰越が「金六拾壱両三朱ト銭百二十三文」と、ごく平常の水準に戻っています。前年に入った千両は、この年のうちに使われていったことがわかります。

次の文久元年は、ふたたび金二百六十七両二分と銭十九文の黒字。これも臨時収入によるものでした。ロシア軍艦と談判するため対馬国へ出張した際の手当などです。ポサドニック号事件で小栗が対馬に渡った、あの出張です。

そして第四冊。文久二年は「金五百三拾弐両壱分三朱」の大赤字となり、文久三年も百十五両三分一朱と銭百十二文の不足を出しています。臨時の手当がつく年は黒字、つかない年は赤字――旗本の家計がどういう構造だったかが、数字にそのまま現れています。

几帳面な予算生活

この家計簿は、毎月の初めに母堂を筆頭として、自分、妻、養子の又一夫妻それぞれに手当を割り当てる、月給制度のような形で運用されていました。群馬県史料集の調査報告は、これを「几帳面な予算生活振り」と評しています。

細かな支出も残っています。

  • 「一銭二百文 愛宕山御初穂」(安政六年十二月十四日)

  • 「一金弐分 神田祭礼見物候ニ付座席料」(文久元年九月十五日)

  • 「一金壱分 穴八幡御免かんけニ付遣ス」(文久二年七月二十一日)

神田祭は九月十五日、日枝神社の山王祭とともに「江戸二大祭り」と呼ばれ、この神輿だけが江戸城内に入れました。その見物の座席料二分は、坂本藤良氏の換算で現在の約五万円にあたります。ペリーが再来航した嘉永七年には、「浜御殿へ御罷在候ニ付、供方へ手当遣ス」(二月四日)、「浜詰ニ付、侍中間へ手当」(二月二十五日)といった記載もあり、黒船が羽田沖まで入ってきたときに小栗が浜御殿の警備にあたっていたことが、家計簿の側からも確かめられます。

父忠高が新潟で病没したのは安政二年七月二十八日、赴任からわずか一年でのことでした。遺骨は新潟の寺町法音寺に葬られ、江戸牛込横寺町の保善寺に分骨されています。以後の家計簿には、江戸の保善寺だけでなく、遠い新潟の法音寺にも、盆と暮に欠かさず「附届」が記録されていきます。

焼かれかけた帳簿

これらの家計簿と日記が今日残っているのは、偶然に近い経緯によります。小栗の死後、その後始末のために現地へ出張したのが、官軍巡察使・大音竜太郎に会計方面の事務を任されていた後藤八郎右衛門でした。八郎右衛門は、小栗の遺品のなかにあった日記と家計簿が塵芥とともに焼き棄てられようとしているのを惜しみ、そっと持ち帰ったと考えられています。

それから八十年以上、帳簿は渋川の後藤家の箪笥の底で眠りました。発見は昭和二十七年。群馬県は昭和三十一年にこれを県の重要文化財に指定し、『群馬県史料集』第七巻に収めています。

政治史の年表には決して出てこない数字が、ここには残っています。千両の手当が渡された十二月、旗本の家の帳面には、ただ「金残」として書き込まれました。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年

→ 幕臣としての台頭・遣米使節

→ 対馬事件

→ 日記が眠っていた八十年