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対馬事件、ロシア軍艦占拠と一触即発の交渉

文久元年(1861)、ロシア軍艦が対馬を占拠した事件。外国奉行だった小栗が現地に赴き、交渉にあたりました。

万延二年(1861)二月三日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の西海岸・芋崎(いもざき)の浦に投錨しました。艦長はビリレフ。「船の修復のため」というのが口実でしたが、見たところ船体に破損はなく、ロシア兵は上陸して海岸に兵舎を築き、周辺の測量をはじめます。年号が文久と改まるのは、この十六日後の二月十九日のことでした。

対馬藩の役人が退去を求めても、ロシア側は応じません。それどころか「対馬の領主に大砲五〇門を献上したい」「その代わりに芋崎付近一帯の海岸をロシアの海軍基地として租借したい」と持ちかけてきました。二月二十九日には僚艦オフリチュック号が現れて食糧などを補給し、まもなく去っていきますが、献上するという大砲が陸揚げされた様子は最後まで見られませんでした。

なぜロシアが対馬だったのか

日本とロシアのあいだには安政元年(1854)の日露和親条約があり、不法上陸はそれから七年目にあたります。当時のロシアは一八五八年のアイグン条約で清国から沿海州を得たばかりで、南の海への出口を強く求めていました。イギリス公使オールコックの本国あて報告書は、ロシアが対馬を欲する理由を、日本海から黄海への自由航路の保障と、有事の際に欧州・清国・日本間の貿易を妨害する根拠地の確保の二点にあると分析しています。

もっとも、対馬を狙っていたのはロシアだけではありません。坂本藤良氏によれば、この事件の前々年、イギリスが対馬の貸与を幕府に要求し、拒まれると強引に島の周囲を測量して去っています。それを知った箱館駐在のロシア領事ゴシケヴィッチは長崎へ急行し、江戸で幕府に抗議したうえ「イギリスの侵略から島を守るために力を貸したい」と申し出ました。幕府は拒否しています。ビリレフが来たのは、そのすぐあとでした。

島民の抵抗と、逃げ腰の藩主

四月十二日、ロシア兵は東西の海岸を結ぶ要衝・大船越(おおふなこし)を強引に越えようとして、対馬藩の役人一人を鉄砲で射殺し、郷士二人を捕虜として軍艦に連れ去りました。番所を襲って武器を奪い、民家から牛七頭を捕らえて去っています。艦内に監禁された郷士の一人は、両刀を取り上げられていたため舌を噛み切って自決をはかりました。翌十三日には番所の役人を拉し去って裸にし、半殺しの目に遭わせています。

島民は手に手に武器を取り、ロシア軍の兵舎にまで押し寄せました。この抵抗を放置できなくなった藩主・宗義和は、ついに次のような布告を出します。

今般碇泊の洋夷、追々軽侮の振舞、憤怒に堪へず候へども、当家より兵端を開き候儀は大切につき、是れ迄相忍び居り候。しかる処、此節、大船越に於て、固の者殺害に及び候一件、最早渠より事を破り候事故、是非打取らず候ては叶ひ難き場合に付、則ち戦闘に決心つかまつり候

坂本藤良『小栗上野介の生涯』所収

一方でロシア側は、幕府が乗り出してこないうちに藩から租借の承認を取りつけようと、執拗に藩主との面会を求めました。「イギリスが宗氏を追い出して対馬を占領しようと狙っている。芋崎付近の租借権を認めてくれれば、ロシア軍は朝鮮半島に出兵し、占領した領土を宗氏に提供する」とまで言っています。荒唐無稽に聞こえますが、藩主が幕府に宛てた報告書にそう書かれている、と坂本氏は指摘しています。

外国奉行・小栗の派遣

幕府は外国奉行の小栗忠順を対馬へ派遣します。品川を発ったのは文久元年四月六日、同行は目付の溝口八十五郎でした。逆風に悩まされながら五月五日に下関着、一泊することも惜しんで即日出帆。対馬到着は五月七日とも十日とも伝わります。このとき小栗は三十四歳。阿部道山氏は「今の外務事務官ぐらいの若さである。これが全権大使である」と書いています。

五月十日から三度にわたってポサドニック号の艦上で行われた談判の中身は、別項にゆずります(対馬でのロシアとの応酬)。結果からいえば、実力で居すわる相手に対して現地の交渉は動きませんでした。小栗は宗家に「たとえ相手がどう出ようと、こちらの態度は飽くまで穏便でなくてはならない。間違っても武力に訴えることのないように」と念を押したうえで、五月十九日、現地談判を打ち切って江戸へ引き上げます。対馬滞在は二週間に満たない短さでした。

天領化と正式外交ルート――容れられなかった上申

帰府した小栗はただちに意見を上申しました。柱は二つです。

  • 対馬を幕府の直轄地(天領)とする 枢要の地が小藩の支配下にあり、幕府に無断で外国と交渉されかねない状態を、小栗は危険きわまりないと見た

  • 対露交渉は正式の外交ルートで行う 現地での談判では解決しない。ロシア領事とのあいだで進め、国際正義に訴えて有利に展開させるべきだ

当時、外国奉行支配調役並だった田辺太一は後年、「小栗ほどの人物がほとんど無為にして帰ってきたのには理由があるはずだ」として、小栗は「対馬を直轄領としなければ、今日は解決しても、ふたたび同様な事態が起こることは目に見えていると考えたのであろう」と述べています。事実、対馬藩はまもなく「対馬は直轄領にしてほしい。かわりに内地に替地をいただきたい」と幕府に出願しており、田辺はこれを小栗の指示ではないかと推理しています。

しかし、安藤対馬守信正・久世大和守広周らを老中とする幕閣は、この上申を容れませんでした。幕府は小栗に、箱館へ行ってロシア領事ゴシケヴィッチと談判せよと命じますが、小栗は箱館には奉行(村垣淡路守)がいるのだから自分が行く必要はないとしてこれを拒み、辞意をひるがえしませんでした。小栗が外国奉行を辞したのは文久元年七月二十六日です。

決着はイギリスの艦隊によってもたらされた

江戸に戻った小栗は、イギリス公使オールコックに面会し、対馬の実情をつぶさに告げて援助を頼んでいます。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、このとき小栗が「この分では、あの辺一帯の海は、ロシアの箱庭の池になりましょう」と語ったと伝えています。老中・安藤信正もまた、ロシア艦問題をオールコックに相談しました。反応は早く、イギリス東洋艦隊の二隻が対馬へ急行します。幕府の役人や通詞(品川藤十郎ら)もこれに乗り込みました。

イギリス艦が芋崎に入ったのは七月下旬。ビリレフに強硬な抗議をして退去を要求し、ロシア艦が対馬を去ったのは八月二十五日でした。勝海舟が『氷川清話』で「彼を以て彼を制す」と述べたとおりの決着です。ただし、オールコックは同じ時期、本国政府への文久元年六月二十六日付の報告書で「露艦がこれを拒む場合は英國自身がこれを占領すべきである」と建議していました。毒を以て毒を制した結果は、前門の虎を追うかわりに後門の狼を呼び寄せかねないものでもあったのです。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 対馬でのロシアとの応酬 → 対馬事件が変えた小栗の考え