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「我を射殺して可也」の胆力

対馬での交渉で見せたと伝わる、身を賭した気迫のエピソードです。

対馬事件で小栗がロシア艦長ビリレフと向き合ったのは、文久元年(1861)五月十日・十四日・十八日の三度。いずれもポサドニック号の艦上でした。そのやり取りは、複数の伝記に問答の形で書きとめられています。相手は実力で居すわる軍艦。こちらに動かせる兵力はない。そういう条件のもとで、小栗が何を言い、何を言わなかったかが、この事件の記録の核心です。

第一回・五月十日――「領主は関知しない」

ビリレフはまず、藩主への面会を求めてきました。今年一月以来この島に碇泊して世話になっているから、直接お礼を申し述べたい、という言い分です。小栗はこう応じました。

「自分たちが出張した以上は、万事自分たちが引き受ける。領主は外交のことは何も関知しない」。ビリレフが「船の修復のお礼を領主に直接言いたいだけだ」と繰り返すと、小栗は「真にそれだけか。ほかに用件はないのか」と念を押します。「まったくない」と答えるビリレフに、小栗は「それならば、将軍の命令でこちらに参っている自分に、ここで礼を言っていただければそれでよい」と言い切りました。阿部道山氏が紹介する近松秋江の叙述では、この場面の小栗の言葉はさらに明快です。

當國は領主が支配してゐるとはいへ、事外交に關する交渉は、一切江戸に在る幕府を對手として談ぜられたい。自分は即ち幕府を代表して、その為め出張したものである。

近松秋江「小栗上野介」(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』所収)

第二回・五月十四日――条約解釈をめぐる応酬

四日後、交渉は本筋に入ります。小栗はまず、東西の海岸を結ぶ要衝・大船越の通行禁止と、ロシア艦の退去を要求しました。

ビリレフは「大船越を通ったのは測量のためだけだ。それに条約は通商関係について結んだもので、軍艦は例外である」と切り返します。これに対する小栗の反論が、この談判でもっとも鋭いところでした。「これは両国政府が国交全般について定めた条約である。軍艦だけは守らなくてよいという解釈は成り立たない」。近松の叙述では「通商上の違反である以上、否、軍艦ならば一層不穏な行動ではないか」と畳みかけており、艦長は弁解の言葉に窮した、とあります。

追いつめられたビリレフは、測量はリハチョフ司令官の命令だから司令官と交渉してほしい、司令官は「たぶん上海にいる。どこにいるかはっきりわからない」と逃げました。小栗はすかさず「では、船の修復というのは口実で、実は測量せよという命令を受けて停泊したのか」と突きます。ビリレフは「修復しているあいだに偶然司令官からの命令があった」と答えるほかありませんでした。

第三回・五月十八日――「我を射殺して可也」

問題は、小栗が着く前にすでに起きていました。対馬藩の責任ある役人が、藩主・宗義和に会わせるとロシア側に約束してしまっていたのです。それから一〇〇日。ビリレフはこの約束を楯に食い下がります。小栗は、いったん交わした約束である以上やむを得ないと判断し、自分の責任で五月二十五日の面会を取りはからうと約束しました。自分たちがついている以上、ロシア人と藩主だけの取引はありえないという読みもありました。

ところが、江戸の老中はこの面会を承諾しませんでした。五月十八日の三度目の談判で、小栗は約束を撤回せざるをえない立場に追い込まれます。ビリレフは「雷が鳴っても、風雨がひどくても、二十五日午後二時には必ず領主へ面会に行く。ただし決して乱暴はしない」と通告しました。小栗は「何でも面会するということ自体が、すでに乱暴なことではないか」と応じますが、ビリレフは「二週間後には面会できるよう取りはからうとあなたが約束した。当方に落度はない」と譲りません。そこで出たのが、この言葉でした。

若し余が請け合へる事にして、幕府の命により、成り得ざるが如き事情も生ぜば、我れを射殺して可也

蜷川新の記述(「當時の文書に依る」と注記。坂本藤良『小栗上野介の生涯』所収)

坂本藤良氏が現代文に直したかたちでは、こうなります。「それは私の一存でうけあったものだが、江戸からの許可が得られなかった。私が承諾したにもかかわらず面会を許さぬことは、まことに私個人の責任である。どうぞ私を鉄砲で撃ち殺しなさい」。大坪指方・穂積驚は、小栗がこれに続けて「貴官が露国の利益のみを主張なされ、当方の言い分を無視なさる場合は、たとえ命を失おうともおめおめ引き退りませぬ」と言い添えたと書いています。蜷川新は、その結果を次のように記しました。「小栗の決意は固かった、流石に暴横強硬なる露人も、小栗の此の決死的雄々しき態度に接しては、之れに敬服し、俄に其の辭を和げた」。

強がりではなかった、と坂本氏は見る

この言葉について坂本藤良氏は、うわべの強がりではなかったと見ています。ビリレフは既成事実をつくることに焦っていました。もしイギリスに先に対馬を租借されれば、本国に帰って処罰され、軍人としての生命を失うことは確実です。小栗を射殺してでも藩主を抱き込み、事実上対馬を占領してしまうほうが有利だと考える可能性は大いにあった――そういう状況での発言だったというのです。実際、ビリレフはごり押しの面会をあきらめました。

明治の終わりに対馬の重砲兵隊に入隊し、この事件を自ら調べて小説『島の秋』を書いた作家・吉田絃二郎氏は、この場面をこう評しています。「この言葉は、いかにも日本男児らしい、いい度胸ではないか。外交の衝に当る者、これほどの胆力を持つてゐれば敵に軽くみられることはない筈である」。

気迫と、自制

もっとも、この談判で小栗が示したのは気迫だけではありません。引き上げにあたって小栗が宗家に残した言葉は、正反対の方向を向いています。「たとえ相手がどう出ようと、こちらの態度は飽くまで穏便でなくてはならない。間違っても武力に訴えることのないように」――大坪指方・穂積驚はそう伝えています。自分一個の命は差し出すが、国と国の間に兵端を開くことだけは避ける。対馬での小栗の応対は、この二つの線の上で組み立てられていました。

なお、この一連の問答は、蜷川新が「當時の文書に依る」と注記して記録したものを軸に、近松秋江・坂本藤良氏・大坪指方らがそれぞれの文体で伝えてきたものです。言い回しは文献ごとに異なります。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(近松秋江「小栗上野介」引用を含む)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年

→ 対馬事件の全体像 → 対馬事件が変えた小栗の考え