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対馬事件が変えた小栗の考え

対馬での経験が、のちの財政・技術改革路線の原点になったという見方があります。

対馬事件は、小栗にとって単なる一つの外交案件では終わりませんでした。坂本藤良氏は、対露交渉の挫折について「小栗を頭のなかだけでなく、からだそのもので開眼させた。遣米使節としての開眼につづく、第二の開眼」と書いています。実際、この事件のあと小栗が手をつけていく仕事は、それ以前とは性格が変わります。

談判の席で何を悟ったか

小栗は、ビリレフが強引に藩主と会うことを、自分の身を張って防ぎとめました。談判としては、それだけでも成功と言ってよい。しかし坂本氏はこう続けます。それは一時しのぎでしかない。もし相手が実力を行使したら、どうにもならなかった。根本的には、何も解決しなかったのである、と。事実、ロシア艦を退去させたのは小栗の談判ではなく、幕府が呼び込んだイギリス東洋艦隊でした。

ここから小栗が引き出した結論を、坂本氏は次のように整理しています。根底にある問題を解決しないかぎり、同様の侵犯はつぎつぎ発生する。弥縫策では必ず間に合わなくなるときがくる。いま日本に必要なのは、侵犯する軍艦も退去させることのできる実力を持つこと。そして「実力とは、軍事力および経済力だ」。

四つの目標

坂本氏は、このときから小栗の情熱が向かった先を、具体的に四つ挙げています。

  • 造船所 米英仏露に負けない艦船を日本人自身の手で建造するための一大造船所の建設

  • 財政 それを支える幕府財政の確立

  • 貿易商社 外国人が独占している貿易上の利益を日本人に取りもどすための商社の設立

  • 教育 以上を可能にするための技術・語学・経済の教育

この四つは、のちに小栗が実際に手がけた仕事とそのまま重なります。横須賀製鉄所、勘定奉行としての財政再建、兵庫商社、そして横須賀に付設された技術者養成の仕組み。対馬で味わった無力感が、この一連の事業の出発点に置かれているというのが、複数の伝記に共通する見方です。

阿部道山氏が引用する作家・近松秋江は、さらに踏み込んで書いています。談判の席で小栗は「まるで、赤兒が大人に手を捻じられるやうな口惜しさを感じた」。そして――

小栗が、幕閣中、まだ何人も、そこまで考へてゐなかつた時分、敢然として、横須賀に軍港を設置する決心をしたのは、此の時の無念が有力なる動機であつた

近松秋江「小栗上野介」(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』所収)

阿部道山氏自身も、対馬での小栗を「失敗だ」と評する歴史家への反論として、こう書いています。「何時の時代でも外交は、その國の國防と兵備と經濟が一つとなつて行かねば強硬外交となつて對手をへこますことは出来ない」。外交の後ろ盾となるべき国防・兵備・経済がことごとく欠けていた――その欠落を、小栗は談判の席で実地に確認しています。

水野忠徳に宛てた手紙

挫折の直後の心境は、書簡に残っています。相手は十七歳年上の先輩・水野筑後守忠徳。長崎奉行・外国奉行・軍艦奉行を歴任し、このとき外国奉行に復帰したばかりの人で、小栗に辞意をひるがえすよう再三手紙をくれていました。小栗の七月四日付の返信の内容を、坂本氏はこう要約しています。

自分の意見はこれまでいろいろ上司に上申したが、上司はひとつも聞きいれてくれなかった。「それはもっともだ」と言ったことすら何ひとつ実行してくれない。これではもはや退職のほかはない。しかし、大議論の末に退職したならば、自分は責任を逃れても、結局は上司に責任をかぶせることになるだろう。それよりも、自分ひとりがそしりをひきうけて静かに退職したほうがすがすがしい――。

大坪指方・穂積驚が原文を紹介している同種の書簡には、「胸中否寒仕、従て眩暈を生じ」と体調の不調を訴えるくだりもあります。このころの小栗は、健康もすぐれなかったようです。

相次いだ先輩たちの死

小栗が幕閣への不満を水野に書き送っていたそのころ、先輩の岩瀬忠震が瀕死の病床にありました。日米修好通商条約を結び、その批准使節の派遣を構想しながら井伊大老に忌避されて蟄居させられた人物で、文久元年七月十一日に喀血して世を去ります。福地源一郎は岩瀬・水野忠徳・小栗の三人を「幕末の三傑」と呼びました。

坂本氏は、この挫折を境に小栗が変わったと見ています。「このころからあと、小栗は、上司の思惑や、批判などを気にせず、自分の考えをつらぬいて生きてゆくように見える。上司をたよること、上司に期待することも、やめたように見える。役職すら、どうでもいい。やるべきことをやるだけ」。以後の小栗が、目まぐるしい人事異動のなかでも一貫した方向を失わなかったことは、この見方を裏づけています。

渡米で見た差と、対馬で知った限界

小栗はすでに万延元年(1860)の遣米使節で、ワシントン海軍造船所を実見し、日本との工業力の差を目の当たりにしていました。対馬事件は、その差が技術の問題にとどまらず、交渉の現場そのものを左右することを突きつけた出来事だったといえます。坂本氏が「第二の開眼」と呼ぶのは、この二つが重なった地点のことです。

四〇年後の対馬

捨て身の抵抗を続けた対馬の島民たちは、それから約四〇年後、思いがけない光景を目にします。明治三十八年(1905)五月二十七日・二十八日、ロシアのバルチック艦隊四五隻が対馬海峡を通ってウラジオストックへ向かい、東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊がこれを迎え撃った日本海海戦です。坂本氏は書いています。「ロシア艦長が圧倒的な海軍力で小栗を威嚇した、そのことが、四〇年後、同じ対馬でのロシア海軍の大敗北につながるのだから、歴史は皮肉なものである」。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(近松秋江「小栗上野介」引用を含む)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年

→ 対馬でのロシアとの応酬 → 頻繁な人事異動、9年で18回