JISEKI

日本海海戦とのつながり、対馬の因縁

横須賀で育った日本の海軍力が、四十年余り前と同じ海域でロシア艦隊を破りました。

明治三十八年(一九〇五年)五月二十七日と二十八日。対馬・大船越の山上からは、晴れた日には沖の島が見えます。その日は「天気晴朗」でした。ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊四五隻が対馬海峡を通ってウラジオストックへ向かい、東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊がこれを迎え撃ちます。有名な敵前回頭でバルチック艦隊の進行をさえぎり、壮絶な砲撃戦ののち、大多数のロシア軍艦が沖の島のあたりで次々に炎上・沈没しました。

四十年前、同じ海にいた男

驚くべきは、これが幕末のロシア軍艦ポサドニク号による対馬侵犯の、わずか四〇年後の出来事だという点です。その四〇年のあいだに、世界最強とも言われた艦隊を全滅させうる近代的な日本海軍がつくられていました。

文久元年(一八六一年)の春、外国奉行としてポサドニク号に乗り込み、艦長ビリレフと談判したのが小栗でした。ロシア側は圧倒的な武力を背景に居すわり、藩主・宗義和との直接面会を要求します。小栗はそれを身をもって防ぎとめましたが、それは一時しのぎでしかありませんでした。相手が実力を行使すれば、どうにもならない。五月十九日、小栗は現地での談判を中止して江戸に引きあげ、まもなく外国奉行の辞任を申し出ます。

この交渉は、当時も後世も「失敗」と評されてきました。海音寺潮五郎氏は「当面のこととしては失敗したわけである」と書いています。小栗自身、先輩の水野忠徳に宛てた七月四日付の手紙で、意見を上申しても上司は何ひとつ実行してくれない、これではもはや退職のほかはない、と胸中を吐露しています。

坂本藤良氏は、この挫折こそが小栗の「第二の開眼」だったと見ています。根底にある問題を解決しない限り、同様の侵犯は次々に起きる。いま日本に必要なのは、侵犯する軍艦を退去させることのできる実力――すなわち軍事力と経済力である。対馬から戻ったあとの小栗の情熱は、造船所の建設、財政の確立、貿易商社の設立、そしてそれらを支える技術・語学・経済の教育へと、一気に集中していきます。

日本海軍の二つの源流

坂本藤良氏は、日本海軍の源流は二つあると整理しています。ひとつは勝海舟の流れで、彼は神戸に海軍操練所をつくり、自らの手で神戸に「日本海軍発祥の地」の碑を建てました。いまひとつが小栗の流れで、彼は幕府内外の――勝海舟も含めての――猛反対を押し切って造船所の建設を決め、その地を横須賀に定めました。

日本海海戦で戦った日本の軍艦の多くは、横須賀の海軍工廠で建造されたものです。世界最新鋭の設備を誇り、日本海軍の最高司令部もここに置かれました。東郷平八郎が乗った旗艦・三笠は、いまも横須賀の岸壁に保存されています。ロシアの艦長が海軍力で小栗を威嚇した、そのことが四〇年後に同じ対馬でのロシア海軍の大敗北につながったというのですから、歴史は皮肉です。

東郷平八郎の謝意

阿部道山氏は、小栗貞雄から直接聞いた話として、次のような逸話を書き留めています。日露戦役のあと、東郷元帥は貞雄の子・又一を自邸に招いてもてなし、日本海海戦の大勝をたたえたうえで、上野介の建設した工廠によって日本海軍の威力を思うぞんぶん発揮することができたと感謝の意を表した。そして「仁義礼智信」の五字を揮毫して又一に贈ったといいます。この軸物はのちに阿部氏に贈られ、普門院に保存されていると記されています。

もう一つの奇縁

洋上でバルチック艦隊を発見し、それが対馬海峡を通ることを報せる重大な第一報を発したのは、三井物産社員の森恪でした。その三井物産を設立した三井の大番頭・三野村利左衛門は、小栗に見出されて三井の番頭となった人物です。坂本藤良氏は、これも奇縁と言えば言えなくもない、と書き添えています。

もちろん、日本海海戦の勝因を横須賀製鉄所や小栗個人にすべて帰することはできません。教育制度の整備、技術者の育成、対外関係の変化など、複数の要因が重なった結果です。ただ、対馬で無力を味わった幕臣が横須賀に造船所を残し、四〇年後に同じ海でその造船所が育てた海軍が勝った――この一続きの筋道は、複数の伝記が繰り返し取り上げてきたものです。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ 対馬事件、ロシア軍艦占拠と一触即発の交渉 → 東郷平八郎と横須賀 → 三野村利左衛門