日本海海戦を指揮した連合艦隊司令長官・東郷平八郎が、小栗上野介の遺族を自邸に招いて謝意を伝えたことがあります。明治四十五年(1912)の夏、日露戦争の終結からちょうど七年目のことでした。
招かれた父子
招かれたのは、小栗家を再興した小栗貞雄と、その子・又一(当時十二歳)の二人です。東郷は日露海戦の勝因を、常々、横須賀造船所の存在と深く結びつけて考えていました。その建設を推し進めた幕臣・小栗上野介への感謝の念が強く、勝利国の海将となって以来、機会があれば遺族と直接会って自分の気持ちを伝えたいという希望を持ち続けていたのです。
東郷自身が人生で最初に経験した海戦は、幕末の薩英戦争でした。二十歳ほどの薩摩武士として、英国艦を相手に大砲を撃っています。その手痛い敗北を知る人物が、のちに英国で海軍技術を学び、連合艦隊を率いて勝利をつかみました。
会談の席で東郷は、日露海戦を思い出しながら、まず勝因の第一に明治天皇の威光の絶大なることを述べました。そのうえで、軍事上の勝因の第一として、「上野介殿が横須賀に造船所を建設しておいてくれたことが、どれ程役立ったか計り知れません」と、率直に感謝の意を表したと伝えられています。
同じ場面は、小栗家の菩提寺・普門院の住職であった阿部道山氏も、貞雄本人から聞いた話として書き残しています。そこでの東郷の言葉は、こうです。
日本海戦に大勝したのは上御一人の御威光である。しかし上野介の建設した工廠に依って日本海軍の威力は思ふ存分に発揮することが出来た
「仁義礼智信」の為書き
辞去にあたり、東郷はその日の記念に自分の書を贈りたいと申し出ました。貞雄は厚意を深く謝したうえで、ひとつ注文をつけます。せっかく揮毫していただけるなら、その為書きは自分の名ではなく、今日同行させた倅・又一の名にしてほしい、と。
東郷は、又一という名の由来を貞雄から聞きます。四代・忠政が徳川家康から「又一番槍か」と褒められたことに由来する、小栗家代々の襲名であり、上野介忠順自身も「又一」を名乗っていた――そう知った東郷は、この注文を快く承知し、後日あらためて書を届けると約束しました。
しばらくして届けられたのは、縦書きと横書きの二幅。文面はいずれも同じ「仁義礼智信」の五文字でした。落款を含めた全文は「仁義禮智信 壬子夏 為小栗又一君 東郷書」。壬子は明治四十五年の干支で、約束どおり少年の名が為書きに入っています。このうち縦書きの一幅は、普門院の阿部道山和尚に乞われて進呈され、同寺の宝物として保存されました。もう一幅は小栗家が保管し、のちに東善寺に寄贈されて本堂に掲げられています。
幕末に賊軍として断罪された人物の子孫を、薩摩出身の海軍元帥がわざわざ自邸に招き、勝因の第一に挙げて礼を述べる。しかも書の為書きは、当主ではなく十二歳の少年の名で。この一連のふるまいは、小栗の名誉がまだ公には回復されていなかった時期のこととして、特別な意味を持ちます。
造船所のない国に海軍は育たない
東郷がなぜそこまで横須賀を重く見たのか。理由は単純です。造船所を持たない国で海軍が発達するはずはないからです。明治維新からわずか三十数年で、日本は当時の軍事大国ロシアと比べても遜色のない海軍力を持つに至りました。その土台は幕末のうちに計画され、薩長が政権を受け継ぐ段階ですでに九分通りできあがっていたのです。
艦を修理する場所がなければ、故障のたびに外国へ運ばねばならない――それは小栗が横須賀の建設を説いたときの言葉でもありました。半世紀後、その懸念が的中しなかったからこそ、連合艦隊は日本海で存分に戦うことができたのです。
海軍からの評価は、東郷ひとりのものではありませんでした。昭和に入ってからも、横須賀海軍工廠長の職にあった海軍少将・星埜守一が、普門院で営まれた小栗の七十一回忌法要に幕僚二名を従えて参列しています。書院に掛かる東郷の書を見て「これはよい記念ですな」と語った長官は、本堂裏の墓前で長く頭を下げたまま動かず、式後、三百人ほどの参詣者を前にこう挨拶しました。自分が墓参したのは、公によって創設された横須賀造船所の工廠長を拝命したので、新任の報告に参じたのだ、と。「あなたの苦心と不抜の精神を以て開設いたしました横須賀造船所は……今日では世界に誇る工廠となりました」「我日本の海軍の存する限りあなたの功は決して没しません」。
阿部道山氏は、海軍の人々が小栗に感謝するのは「断然毀誉の外に立つて」、先人の考えなかった造船廠を設けたその気風を思うからだろう、と書いています。政治的な立場や賊軍・官軍の区別を離れ、実務者が実務者を正当に評価した結果だったといえます。東郷の言葉は、そうした評価の象徴として今日まで語り継がれ、のちの銅像建立の機運にもつながっていきました。
典拠:小栗忠人「日露戦争と小栗忠順」(小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』)/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年