横須賀には、小栗上野介忠順とフランス人技師ヴェルニーの胸像が並んで立っています。ところがこの二つの像は、はじめヴェルニー一人の像として計画されていました。小栗の像が加わったのは、一人の海軍軍人が計画に異を唱えたからです。
櫻井錠二から黒井悌次郎へ
胸像建立の運動を始めたのは、ヴェルニーから工学の面で恩を受けた学者たちでした。報恩謝徳の意味で、ヴェルニーの胸像を建てたい――その話を、当時の横須賀海軍工廠長・海軍中将黒井悌次郎のもとへ持ち込んだのが、化学者の櫻井錠二博士です。
黒井中将は、その場で計画の誤りを指摘しました。いまの工廠はヴェルニーによって開設されたのでは決してない。小栗上野介の決断によってなされたものであり、小栗がフランス公使ロッシュを介して、当時上海にいたヴェルニーを雇い入れたにすぎない。ヴェルニーの像を立てるのであれば、まず上野介の像を建て、しかるのちに彼の像を建てるのが順序であろう――こう述べたのです。
こうして、小栗上野介の像を建てることになりました。阿部道山氏は、この経緯を黒井大将本人からも、小栗家十三代の小栗貞雄氏からも、たびたび直接聞いたとして「この事実を披露しておく方が後世のためよかろうと思う」と書き残しています(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』)。
大正四年、工廠長が出した公文書
黒井悌次郎が小栗の名を守ったのは、胸像の件だけではありません。大正四年九月二十七日、横須賀海軍工廠創立五十周年の祝典にあたり、黒井は工廠長として横須賀海軍船廠創設の由来を公表しました。海軍当局によって公表された文書として、これが最初のものです。
会々小栗上野介勘定奉行を以て海軍所の事務を兼掌するあり。夙に時勢を洞察し、極力異論を排し船廠設立の急務たるを主張す。幕府遂に之を容れ上野介及び目付栗本瀬兵衛に命じ、本邦駐箚仏国全権公使ロセスに就いて諮問せしむ
文書はさらに、公使が横浜在泊のフランス艦隊司令長官ジョーレスと謀り、船廠創立主任としてフランス海軍技士ヴェルニーを薦めた、と続きます。順序を明記した文章です。小栗はこのヴェルニーを、年俸一万三千両で遇しました。この公文書は銅板に刻まれ、工廠の玄関前に据えられています。
五十周年の日付が九月二十七日であるのは偶然ではありません。慶応元年九月二十七日が、横須賀製鉄所の創立鍬入れ式の日だったからです。四ヶ年計画、総額二百四十万ドル。そのうち二百万ドルは、小栗の手を経てフランスに返済されています。
皇后陛下からの御下賜金
胸像の建設基金には、当時の皇后陛下から金一封が下賜されました。皇后宮大夫の大森が、東京市目黒区洗足町の小栗貞雄邸を訪れ、この思召を伝えています。大森大夫は貞雄氏にこう語ったと伝わります――自分も小栗上野介が横須賀軍港の開設者であることも、明治文化史上の働きも少しも知らなかったが、「小栗上野介とはどんな人か」との御下問があり、取り調べた結果、得がたい国家の功臣であったことが明瞭になったので謹んで御奉答した、と。そのとき皇后陛下は「気の毒の者よ、写真を見たし」と仰せられたといいます。貞雄氏はただちに小栗の写真を謹んで大森大夫のもとへ送りました。
阿部道山氏は、この話を小栗貞雄翁から直接聞いたと記しています。胸像そのものの建立は大正十一年と伝えられます(顕彰会会誌『たつなみ』)。
供出、そして再鋳
この胸像は、太平洋戦争中の金属回収によって供出を余儀なくされました。しばらくは横須賀市役所前の児童公園にコンクリート製の像が代替として立てられていたと伝わります。昭和二十七年、戦後第一回の開港まつりに際して、小栗・ヴェルニー両像はふたたび銅像として改鋳されました。不要となったコンクリート像は、商工会議所の廊下に安置されたといいます。
大坪元治氏は、この昭和二十七年九月二十七日の除幕について、講和会議ののち国際儀礼により米仏両国の代表が列席し、フランス海軍の儀仗隊礼式のもとに除幕された銅像は小栗上野介ただ一人である、と書き留めています。
工廠長という立場で日々その設備に触れていた人物が、計画そのものに異を唱えて発案者の像を先に立てさせた。横須賀における小栗への評価が、現場の実感に裏づけられたものであったことを、この一件はよく示しています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/顕彰会会誌『たつなみ』
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