小栗上野介の名誉回復のあゆみのなかで、決定的な意味を持った出来事があります。皇后陛下が「小栗上野介とはどんな人か」と御下問になり、その写真を御覧になりたいと仰せられた――という一件です。当時の皇后は、大正天皇の皇后、のちの貞明皇太后にあたります。
きっかけは横須賀開港五十周年
発端は大正四年(1915)でした。この年、横須賀は開港五十周年の祝典を迎えます。開港第一の功労者として、小栗忠順が栗本鋤雲とともにあらためて浮上し、新聞各紙がその功績を華々しく報道しました。
同年九月には、「横須賀海軍工廠」の名で「横須賀海軍船廠創設ノ由来及其ノ発達ノ梗概」と題する公文書が発表されます。そこには、ヴェルニーが就任以来二十年間その職に尽瘁して創業の功を全うした功績は、「小栗上野介が極力異論ヲ排シテ船廠設立ノ議ヲ成立セシメタルノ偉績ト共ニ、正ニ之ヲ不朽ニ伝フベキ所ナリトス」と明記されていました。賊軍として斬られた幕臣の功績が、国家の公文書のなかで正面から認められたのです。
この一件が、宮中の耳に届きました。
大森皇后宮大夫が伝えたこと
皇后宮大夫であった大森が、小栗家の当主・小栗貞雄の邸(東京市目黒区洗足町)を訪れます。御内帑金二百円の下賜を伝えるとともに、大森はこう語りました。
実は私も小栗上野介の横須賀軍港開設者たることも、また明治文化史上に於ける偉大なる働きも少しも知らなかつたが、小栗上野介とはどんな人かとの御下問あり、いよいよ取調べの結果、得がたき国家の功臣であつたことが明瞭になつた故、謹んで御奉答し奉つたわけである。その時皇后陛下には気の毒の者よ、写真を見たしとお仰せあらせられた
皇后宮大夫その人が、小栗の名を知らなかった。御下問を受けてはじめて調べ、「得がたき国家の功臣」であることを知って奉答した。その報告を聞いた皇后が口にされたのが、「気の毒の者よ」という一言と、写真を見たいという言葉だったのです。
この話を聞いた貞雄は恐懼感激し、ただちに小栗の写真を謹んで大森大夫のもとへ差し出しました。一枚の写真が、宮中へ上がったのです。
この経緯は、蜷川新の著作にも記されていますが、普門院の住職だった阿部道山氏は、貞雄本人から直接聞いた話として書き残しています。貞雄はこう語ったと伝えられます。
もし世は何んと誤伝宣伝しても、上野介の子孫として、少しの思ひ残す所はありません……小栗の写真が宮中に於て皇后陛下の御台覧の光栄に浴するとは、なんたる……
胸像はこうして建った
この御下賜金によって、横須賀に小栗の胸像を建てる計画が実現します。制作は彫刻家・朝倉文夫。大正十一年(1922)九月二十七日、横須賀の諏訪山上に、ヴェルニーの像と並んで建てられた小栗の胸像の除幕式が、日本海軍の手で執り行われました。小栗が心血を注いだ軍港を見下ろす位置です。
この胸像の建立をもって、小栗家は自らの立場に決着をつけたと考えました。大正十三年五月、貞雄は『上毛及上毛人』主幹の豊国覚堂に一文を寄せ、「皇后陛下のお手許金御下賜により、小栗上野介の胸像建立が成つたこと等の事実により、最早雪冤は十分相済みたる事」と述べています。その後も贈位を求める上申が群馬県から重ねられ、県知事が大礼の十日ほど前に自ら小栗の墓参をするほどの熱の入れようを見せましたが、贈位は実現しませんでした。それでも遺族の側は、御下賜金と胸像によって「反逆の冤罪は拭はれたるもの」と受け止めていたのです。
その胸像も、そのまま残ったわけではありません。大戦中、金属回収のため供出を余儀なくされ、しばらくは横須賀市役所前の児童公園にコンクリート製の代替像が置かれていました。両像が再び銅像として改鋳されるのは、昭和二十七年(1952)、戦後第一回の開港まつりを挙行するときのことです。
ひとつの公文書が宮中に届き、御下問が発せられ、一枚の写真が差し出され、胸像が建ち、それが溶かされ、また鋳直される。名誉回復とは、こうした出来事の積み重ねでした。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年
→ 銅像は最初ウェルニーだけの予定だった / 蜷川新と名誉回復 / 大正期の顕彰