フランソワ・レオンス・ヴェルニーは、フランス海軍の技師で、横須賀製鉄所の建設にあたって技師長として招かれた人物です。フランスの名門校エコール・ポリテクニックの出身で、技術者としての確かな裏づけを持っていました。来日したとき、まだ三十歳になっていません。その若者が、日本の近代工業の出発点となる工場を設計し、幕府と明治政府という二つの政権をまたいで十一年を日本で過ごします。
上海にいた技師
ヴェルニーの名を最初に口にしたのは、フランス公使のレオン・ロッシュでした。小栗が造船所建設を相談したとき、ロッシュはこう答えます。大型のものはもっと適切な場所を探して造るのがよい、これについては上海に海軍技師フランソワ・ヴェルニーという者がいて、大変優秀だから、もし日本が希望するなら呼び寄せてもいい――坂本藤良『小栗上野介の生涯』はそう伝えています。横浜に停泊していたフランス艦隊司令長官ジョーライスも、船廠創立主任としてヴェルニーを薦めました。
大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、このときの小栗の動きを書きとめています。ロッシュの讃辞を聞いた小栗は、馬を飛ばして江戸に帰り、老中たちの承認をかろうじて取りつけると、また馬を飛ばして横浜へ急いだ。上海にいるヴェルニーを一日も早く迎えられるよう、ロッシュに依頼するためでした。
ヴェルニーが上海から到着したのは、元治二年(慶応元年・1865)正月のことです。同時に建設委員が決まりました。日本側は老中・水野和泉守、若年寄・酒井飛驒守、勘定奉行・松平対馬守、軍艦奉行・小栗上野介と木下謹吾、目付・山口駿河守と栗本瀬兵衛(鋤雲)。フランス側はロッシュ公使とヴェルニーの二人です。一月二十九日付で交わされた「製鉄所約定書」には、上等機械官ウェルニー、最もその技に長じたる故をもって薦揚せられと、彼を招いた理由がそのまま記されています。
「風采があがらず、しかも若年」
日本側が最初から歓迎していたわけではありません。坂本藤良氏は、こう書いています。ヴェルニーは西洋人にしては風采があがらず、しかも若年だった。最初は誰もが啞然とし、不安がり、ばかにしたが、あとで舌をまくことになる。
もっとも執拗に異を唱えたのは、軍艦方の肥田浜五郎でした。肥田は咸臨丸の乗組員として渡米した技術者で、横須賀という立地にも、ロッシュが呼び寄せたヴェルニーその人にも反対します。パリでは、肥田がオランダに注文していた機械類の扱いをめぐって両者が激しく争いました。横須賀製鉄所で使えるか分からないから再検査したうえで引き取りたい、というヴェルニーの主張を、肥田は固く拒んだのです。
立地についても、ヴェルニーは正面から反論しています。艦廠を建設するのに横須賀ほど最適の地形を有するところは江戸湾内に存在しない。江戸湾の入口だから敵に容易に占領されるというのはおかしい、海陸の要塞砲台で十分に自衛できる。フランスのツーロン、イギリスのプリマスに勝るとも劣らない、すぐれた地勢である――技術者としての判断を、彼は譲りませんでした。
まず、さびた機械を磨くことから
来日した翌月には、ヴェルニーはもう横浜製鉄所の建設にとりかかっています。最初の仕事は、かつて佐賀藩から幕府に献納されたまま眠っていた蒸気動力の製鉄・造船機械一式を、部下のジンソライに全部点検させることでした。さびているものもあったので、磨きたてさせています。
待遇は破格でした。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、小栗がヴェルニーを遇するに年俸一万三千両をもってした、と記しています。幕府の雇入台帳にあたる記録では、雇入年月日は慶応元年七月十二日、年俸一万ドル。医師アバチャーの年俸五千ドルと並ぶ超高額者でした。
学校をつくらせてくれ
ヴェルニーが日本に遺したものは、船渠と工場だけではありません。慶応三年(1867)二月二十日、彼は幕府につぎのような提案を出しています。
最重要、かつ急速に実行すべきものは、造船学校の組織であります。日本政府が、つぎつぎにもとめる大事業に当たる能力ある青年を養成するためであります
提案は具体的でした。学校は横須賀に設立すること。生徒は横浜のフランス語学所のような学校を終えたうえで試験に合格した者に限ること。年齢は十七歳から二十一歳、校外通学でも寄宿でもよいが寄宿が好ましいこと。課程は三ヵ年とし、三年次には簿記を加えること。卒業に際して首席・次席の二名は渡欧し、二ヵ年さらに勉強すること。そして、すでにいる年長四名・若年二名の六名で直ちに開校できること――田中弘義、山高信離、河合捨吉の三名には、二年で実務に就けるよう特別訓練を行う、と名指しで書き添えています。
日本で最初の、理工科系専門学校でした。少数精鋭を貫いたこの学校からは、建艦技術を世界に誇るものとした山口辰弥・若山鉉吉、のちに大審院院長となった名村泰蔵、日本の会計学の草分けとなった稲垣喜多造らが出ています。
人を育てることへの関心は、職工の待遇にも向かいました。日本人の職工は、何とか洋式工業技術に熟練してくるとつぎつぎとやめていって、未熟練者ばかり残ってしまう。前途大いに憂うべきだと嘆いたヴェルニーは、その対策として、職工の給料を増加して喜んで就業し容易にやめないようにすること、別に等級を設けて技倆の進んだ者や熱心に仕事をした者を増給させることを、小栗らに進言しています。
雇い主が消えても、帰らなかった
慶応四年、自分を雇った幕府が消滅します。ヴェルニーは帰国しませんでした。横須賀・横浜の両製鉄所が明治政府に受け継がれたのちも働き続け、明治九年(1876)三月に辞職するまで、十一年を日本で暮らしています。その間に工場は神奈川裁判所の管轄から大蔵・民部・工部の各省へ移り、明治四年に横須賀造船所と改称され、翌五年十月に海軍省の所管となりました。所属官庁がめまぐるしく変わるなかで、現場に立ち続けたのが彼でした。
明治四年十一月、明治天皇が造船所に行幸した際には、ヴェルニーら雇フランス人が拝謁を許され、勅語を賜っています。大正四年、横須賀海軍工廠創立五十周年を期して工廠長・黒井悌次郎が発表した公文書は、ヴェルニーの功績を「小栗上野介が極力異論を排して船廠設立の議を成立せしめたる偉績」と並べて、ともに不朽に伝えるべきものだと記しました。
横須賀のヴェルニー公園には、いまも小栗上野介とヴェルニーの胸像が並んで建てられています。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』の著者は、ヴェルニーを非難した文章に出会った記憶がない、と書き添えています。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年
→ 横須賀製鉄所という事業について / 横浜製鉄所とヴェルニーの仕事ぶり / 横須賀で始まった技術教育 / 並び立つ二つの胸像 / 明治天皇の行幸と勅語