横須賀製鉄所は、小栗の死後も明治政府にそのまま引き継がれ、横須賀造船所として稼働を続けました。その歩みのなかで大きな節目となったのが、明治四年(一八七一年)十一月二十一日、明治天皇が御召艦「龍驤」に乗艦して横須賀造船所を訪れた行幸です。小栗が権田村で斬られてから、三年目のことでした。
行幸当日の巡覧
阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、当日の様子を『近世海軍史要』四五六頁から引いています。
翌二十二日午前九時、行在所より御乗馬にて造船所へ臨御、製鋼、滑車製造、建具、木挽機械、造船等の諸場及び船渠等御巡覧の上、新官廳に於て御晝饌、畢つて御雇佛人ウエルニー、カバジー、チボジー等に謁を賜ひ、勅語を賜りた。次で水潜、新修船場、輕氣球、重荷昇降機械御巡覧、午後三時横須賀港内を御巡航、揚泥器械の運轉を觀覽あらせられ、畢つて行在所へ還御遊ばされた
製鋼場、滑車製造場、建具、木挽機械、造船の各工場とドック。昼食をはさんで、潜水、新しい修船場、軽気球、重荷昇降機械。午後は港内を船で巡り、浚渫用の揚泥機械が動くところまで見ています。一施設を形式的に視察したのではなく、工場群の一つひとつを順に見て回る、丸一日がかりの日程でした。
技師への拝謁と勅語
この日、明治天皇は建設を主導したフランス人技師レオンス・ヴェルニーのほか、カバジー、チボジーら「御雇仏人」に拝謁を許しました。幕府が招いた外国人技師に、新政府の天皇が直接会っています。そのうえでヴェルニーに下賜されたのが、次の勅語です。
造船ノ諸場能ク整備シ其業ヲ創立ス
朕今巡覧悦喜ニ堪ヘス、是レ偏ニ汝始メノ勉力ニ依ル
朕深ク之ヲ嘉賞ス
造船の諸施設がよく整い、その事業が立ち上がっている。いま巡覧して喜びに堪えない。これはひとえにあなたがはじめに尽くした力によるものであり、深く嘉賞する——という内容です。阿部道山氏はこれを「我が海軍に賜りた勅語の嚆矢」と記しています。
政権交代をまたいで残ったもの
ヴェルニーを首長技師として招いたのは小栗自身でした。阿部道山氏によれば、小栗はヴェルニーを年俸一万三千両で遇しています。海軍大佐・石原戒造『横須賀海軍工廠創設の由来』は、横須賀製鉄所が艦船の製造・修理、海軍軍需品の供給、技術員の養成に加えて土木、建築、付近海面の灯台の建設・管理まで一手に引き受けていたと述べ、「造船所の創設といふよりも、寧ろ、軍港の創設であつて……帝国海軍の基礎を作るべき一大事業であつた」と評しました。
幕臣として罪人同様の扱いを受けたまま世を去った小栗の仕事が、三年後には天皇みずからが一日をかけて視察する事業に育っていた。倒れた幕府が資金と責任を引き受けて作った施設を、新しい政権の頂点に立つ人物が訪れて評価したという構図です。小栗の名がまだ公にはほとんど語られなかった時期に、その仕事の成果だけが先に認められていました。
造船所そのものへの公の評価が、小栗個人の名と結びつけて語られるまでには、さらに時間がかかりました。大正四年(一九一五年)九月二十七日、横須賀海軍工廠創立五十周年の祝典にあたって、工廠長の海軍中将・黒井悌次郎が創設の経緯を記した公文書を発表し、小栗の功績を不朽のものと讃えます。海軍当局が公表した文書としては、これが最初でした。その文書は銅板に刻まれ、工廠の玄関前に据えられています。
その公文書は、建設の決定に至る経緯をこう記しています。江戸湾に一大船廠を創設しようとして役人を集めて議論させたところ、国事多端・府庫空乏を理由に難色を示す者が多く、議論百出して容易に決しなかった。そこへ勘定奉行として海軍所の事務を兼掌していた小栗上野介が、「夙に時勢を洞察し、極力異論を排して船廠設立の急務たるを主張」した——。こうして小栗と目付・栗本瀬兵衛(鋤雲)が駐日フランス公使ロッシュに諮問し、公使は横浜在泊のフランス艦隊司令長官ジョーレスと謀って、船廠創立主任にフランス海軍技士ヴェルニーを推薦した、という流れです。行幸の日にヴェルニーが受けた勅語は、この決定の延長線上にありました。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年
→ 国産初の軍艦「清輝」進水 → レオンス・ヴェルニー → 大正期の顕彰