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国産初の軍艦「清輝」進水

幕末に始まった構想が、十年をかけて一隻の艦として実を結びました。

横須賀製鉄所が造船所として実力を示した最初の成果が、軍艦「清輝(せいき)」です。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』には、横須賀鎮守府から寄贈された当時の写真の記載が、そのまま書き写されています。

横須賀造船所建造第一艦 軍艦清輝
明治六年二月十日起工、明治八年三月五日進水、排水量八百九十七噸

阿部道山氏は、この日を「明治八年三月五日 我が国で始めて軍艦が出来た、その進水式の挙行せられた記念せらるべき日」と書いています。

鍬入れから十年

ここに至るまでの道のりは、そのまま横須賀という事業の年譜でもあります。海軍大佐・石原戒造の記録から阿部道山氏が摘記したところによれば、順序はこうです。

  • 慶応元年三月十二日 製鉄所委員が、横須賀村の三賀保・白仙・内浦にわたる七万四千三百六十坪を敷地と決定。工場その他の建坪は合計七千八百五坪、建築費は二十二万六千両を要する見積りでした。

  • 慶応元年八月二十四日 横浜製作所の建築物が竣工。委員の小栗上野介以下が検閲し、ただちに工作機械の据付けを命じています。

  • 慶応元年九月二十七日 横須賀製鉄所敷地の鍬入式。

  • 慶応二年十月三日 雇フランス人が到着し、ヴェルニー以下四十三名となる。

  • 慶応二年十二月二十九日 幕府が寄合・一色摂津守を製鉄所奉行に任命。

  • 慶応三年三月 第一船渠の開鑿に着手。

  • 明治元年四月 明治政府に引き渡される。

  • 明治元年五月 わが国で初めての修船台(ドック)が竣工。

工場はその後、神奈川裁判所の管轄から大蔵・民部・工部の各省へと移り、明治四年に横須賀造船所と改称、翌五年十月にようやく海軍省の所管となりました。清輝の起工は、その翌年の明治六年二月十日です。明治二年四月の時点で、ここには内国の官吏・職工が七百五十八名、フランス人が三十二名、合わせて七百九十名が働いていました。

阿部道山氏は、この積み重ねを一行でこうまとめています。横須賀の方は小栗の亡きあとも幾多の変遷こそあったが、明治八年には日本自らの手によって清輝丸という軍艦が進水するまでに発達した――と。慶応元年九月の鍬入れから数えて、ちょうど十年でした。

造船所は、艦とともに人も育てていました。慶応三年二月、技師長ヴェルニーは幕府に造船学校の設立を提案し、生徒は十七歳から二十一歳、課程は三ヵ年、首席・次席の二名は卒業に際して渡欧してさらに二年学ばせる、という具体案を出しています。日本で最初の理工科系専門学校でした。清輝が起工された明治六年は、その最初の世代が現場の中核に育ちつつあった時期にあたります。

艦首にひるがえる日の丸

阿部道山氏が手にした写真には、清輝の艦首に日の丸の旗が翩翻とひるがえっていました。氏はこれに註を加えています。日の丸の旗は安政二年七月十一日、薩摩の島津斉彬の献言によって日本船の総印として「白地に日の丸」を制定したのが軍艦旗の起原であるから、この日の丸には何の不思議もない、と。十六条の光線を添えた軍艦旗が定められるのは明治二十二年十月七日のことで、同年十一月三日の天長節を期して海軍の全艦に一斉に揚げられました。清輝が掲げていたのは、その前の、まだ光線のない日の丸だったわけです。

「土蔵付き売据」の証拠として

建設費の捻出を案じる栗本鋤雲に向かって、小栗は笑って言いました。いよいよ完成したときは、たとえ幕府が滅びてそっくり熨斗をつけて新しい持主に渡すことになっても、なおかつ「土蔵付き売家」という栄誉は残せるでしょう――。清輝の進水は、その言葉が空言でなかったことを、形にして示した出来事です。発注した政権は消え、計画した本人も死んでいるのに、工場は残り、艦を一隻生み出しました。

その後も横須賀では艦が造られ続けます。昭和九年六月に横須賀海軍工廠が発表した公報によれば、創立以来この工廠で製造された艦艇は軍艦だけで三十五隻を数え、戦艦「陸奥」もここの産でした。清輝は、その長い列の先頭に立つ一隻でした。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(海軍大佐・石原戒造の記録、および昭和九年六月横須賀海軍工廠公報を含む)

→ 明治天皇の行幸と勅語 / 横須賀製鉄所を作った男 / 技師長ヴェルニー