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日記が眠っていた八十年

貴重な日記・家計簿が約八十年間、世に知られずにいた背景にある事情を紹介します。

小栗上野介の家で記されていた日記と家計簿は、今日『小栗日記』として群馬県史料集第七巻に収められ、群馬県の重要文化財にも指定されています。この記録が世に出るまでに経過した歳月は、八十四年。慶応四年(1868)の夏から昭和二十七年(1952)の秋まで、ある旧家の箪笥の底で、誰にも知られずに眠っていました。

焼かれる寸前に懐へ入れられた

そもそも、なぜこれらの記録が旧家に残ったのか。小栗の処刑後、巡察使・大音龍太郎は、上野国渋川宿の問屋・後藤八郎右衛門に、小栗の遺品の後始末を命じました。八郎右衛門は閏四月二十五日まで物品の処分にあたっています。売れる品は売り払われ、残った文書類――とりわけフランス関係の書簡など――は、その多くが焼却処分にされました。

その焼却の山のなかから、八郎右衛門は日記と会計の帳面をそっと懐中に納めて持ち帰ったのです。以後、彼はそのことを誰にも話しませんでした。官軍や周囲の目をはばかり、帳面箪笥の底に秘めたまま、子孫にも告げずに世を去ったと伝えられています。

賊軍として断罪された人物の記録を手元に置いておくことが、当時どれほど危ういことだったかは想像がつきます。小栗の処刑は取り調べも判決文もないまま行われ、そのうえで「逆賊」の宣伝がなされました。権田村の周辺では、小栗に関係するものは片端から調べられ、家探しをされています。八郎右衛門の沈黙は、そうした空気のなかでの判断でした。

昭和二十七年九月、後藤家にて

発見は偶然によるものでした。昭和二十七年(1952)九月、郷土史家の本多夏彦氏が史料調査のため渋川の後藤家を訪れ、そこで小栗の日記二冊、家計簿四冊、そして八郎右衛門自身の手記を見つけ出します。持ち帰った当人が沈黙したまま亡くなっていたため、家の側にもその価値は知られていませんでした。

この発見は、幕末史の重要資料として大きな反響を呼びます。それまで小栗自身の手になる記録がほとんど残っていなかったため、『ロセスと小栗上野介』の著者・長倉真民氏などは「小栗は筆不精ではなかったか」とさえ述べていました。日記と家計簿の出現によって、その見立ては覆りました。

昭和三十一年(1956)、群馬県はこれらを県の重要文化財に指定し、『群馬県史料集』第七巻に『小栗日記』として収めました。指定にあたっての調査報告書を執筆したのも本多氏です。また小栗研究家の大坪指方氏が原本を直接書写し、その写しが市川八十夫家へ寄贈されて、のちの『倉渕村誌』編纂にも用いられています。

何が書かれていたか

家計簿は四分冊からなります。第一分冊は、小栗がまだ家督を継ぐ前の嘉永三年(1850)一月から安政二年五月までの五年半。そのあと二年半が欠落し、第二・第三・第四分冊は、家督を継いだのちの安政五年(1858)一月から文久三年(1863)十二月までの六年間を記録しています。

第一分冊は縦十六センチ、横十二・一センチ、九十五枚綴りの、新書版ほどの大きさの帳面です。表紙には「量入制出簿」――収入をはかって支出を制する簿――と記されていました。各年とも、はじめに年間の収入を書き、そのあとに月ごとの支出が続くという形式で、記述は淡々と同じ調子で続きます。

日記のほうも同様です。感情を率直に書き込んだ勝海舟の日記とは対照的に、小栗の日記は極端に感情を排し、事実を淡々と述べる文体で貫かれていると、坂本藤良氏は評しています。だからこそ、日々の買い物や祝儀、来客、行事にかかった費用といった細部が、装飾なしにそのまま残ることになりました。

眠っていた八十四年の重み

日記や家計簿は、公的な文書と違って、持ち主の家の判断ひとつで失われてしまう性格のものです。焼却の山から抜き取られ、告げられることもないまま箪笥の底に置かれ、それでも処分されず散逸もしなかった――この八十四年は、偶然がいくつも重なった結果でした。もし八郎右衛門が手を伸ばさなければ、あるいは後藤家の誰かが古い帳面を捨てていれば、私たちが小栗家の日々の暮らしぶりを具体的に知ることはできなかったはずです。

この日記と家計簿の発見によって、それまで分からなかった事実がいくつも解けました。記録を残した小栗夫妻だけでなく、それを守り伝えた人々の存在も、あわせて記憶しておきたい事実です。

典拠:小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻

→ 発見者・本多夏彦氏の後日談 / 暮らしと家計簿 / 家計簿が語る小栗家の家計