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発見者・本多夏彦氏の後日談

日記・家計簿を発見し翻刻した本多夏彦氏の仕事と、その後の学術的評価を紹介します。

小栗上野介の日記と家計簿を発見し、翻刻して世に出したのが、群馬県文化財専門委員をつとめた郷土史家・本多夏彦氏(理一)です。群馬県史料集第七巻『小栗日記』は、氏の仕事なしにはありえませんでした。

昭和二十七年九月、後藤家のたんすの底

本多夏彦氏がこの史料に行き当たったのは、昭和二十七年(1952)九月のことでした。北群馬郡渋川市の旧家・後藤家(当主は二代目の善十郎翁)を、いつもどおり史料拝見のために訪ねていた最中の出来事です。たんすの底から出てきたのは、小栗上野介自筆の日記二冊と家計簿四冊、それに後藤八郎右衛門の手記などでした。人の目に触れるまでに、八十年を超える歳月が流れていました。

日記の中身は、慶応三年分が三百五十四日間、慶応四年(明治元年)分が百二十日。閏四月二日までが書かれており、殺される日を含めて最後の四日間だけが空白でした。

「維新史料として最も貴重な文化財」

原本は東京大学史料編纂所に提出され、数か月留め置かれたのち、「維新史料として最も貴重な文化財」との折紙を付されて丁重に返されました。個人の日々の記録が、幕末を知るための一級の史料として評価されたのです。原本はその後、群馬県の重要文化財に指定されました。指定にあたっての調査報告書を書いたのも本多氏自身で、それは後年、『小栗日記』の解説に代えてそのまま収められています。

本多氏が日記から読み取った小栗

その調査報告のなかで、本多氏は史料の価値を述べるだけでなく、日記から読み取れる人物像を書き留めています。

彼の日記には喜怒もなければ、哀傷もない。彼は恐らく鉄のような人だったのであろう

慶応四年正月、江戸城の大評定で主戦論を唱え、将軍慶喜の袴の裾を押さえて極論したために怒りに触れ、将軍から直々に職を免じられる――徳川三百年で彼一人といわれるその一件ですら、日記の記事は「平々淡々と表面の事しか筆にして居ない」というのです。

もう一つ、本多氏が心を動かされたのは、日記の最後の丁でした。三十五丁目、閏四月二日の記事に挟まれていた下敷紙です。十五行の罫を墨で引いたその紙は、表裏とも長年の手垢で真黒に汚れていました。物を無駄にしない几帳面な人だった、という証拠をそこに見た本多氏は、「誰か上野の為に胸の一ぱいにならざるものがあろうか」と書いています。

家計簿からも、同じ性格が見てとれました。毎月の初めに、母堂を筆頭として本人・内室・養子又一夫妻にいたるまで、月給制度のように手当を割り当てていく――十年分の家計簿が伝えるのは、そうした予算生活ぶりでした。

発見者の後日談――「研究などというものの罪の深さ」

この発見は、本多氏にとって誇らしい手柄だったはずです。実際、本人も当初はそう思っていました。ところが後年、『小栗日記』に寄せた「あとがき」で、氏は思いがけない述懐を残しています。

私が昭和廿七年九月常例の史料拝見に後藤家(当主は二代目善十郎翁)訪問中、小栗上州公の日記類を発見したことは、当時ひそかに大手柄を以て自任して居ったが、年月が経つに従って、大手柄どころか、後藤家で頼みもせぬプライバシーに立入て、もし当時の八郎翁ならば、余計なことをしてくれたと苦がり切ったに相違ない

私が全く善意を以て先輩郷土人のプライバシーをあばいた罪過に想到すると、研究などというものの罪の深さに気が暗くなるのをどうすることも出来ない

後藤家が長いあいだ誰にも語らずにこの書類を秘めていたことには、それなりの事情がありました。それを掘り起こして公にした自分の行為を、氏は歳月を経てから問い直しているのです。郷土史の史料発見というものが、常にこの種の重さを伴うことを、発見者自身の言葉ほど率直に語るものはないでしょう。

翻刻と、その先の仕事

群馬県史料集第七巻『小栗日記』は、第七回配本として昭和四十七年(1972)九月二十日に刊行されました。発見から二十年がかりの仕事です。巻末には、後藤八郎右衛門の手記「村々役人願出取次留(戊辰閏四月)」、佐藤藤七と柳川兼三郎による「航海日記(抄)」、そして本多氏自身の論考「小栗上野介の為替所取立建議」が併載されています。

この「為替所取立建議」は、本多氏の史料探索がどういうものだったかをよく示しています。権田周辺から流出した反古のなかから氏が拾っておいた一通の建議書――政府の為替所を設けて金銀の運用を国家の手に取り戻すべきだ、という小栗の提案書です。氏はのちに発見した日記の筆跡と見比べ、やはり小栗自筆のように思われる、と書き添えています。為替所そのものは、既存の両替商で間に合っているという上司の意見によって握り潰され、実現しませんでした。

本多氏は晩年まで現地を歩き続けました。権田の十王堂では、誉田三平次や佐藤藤七らの墓石を丹念に調べています。地元の郷土史家に「これは権田の文書だから君にあげるよ」と資料を譲り渡してもいます。発見も翻刻も、そうした地道な足の積み重ねの上にありました。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻(本多夏彦「調査報告」「あとがき」「小栗上野介の為替所取立建議」)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』

→ 日記が眠っていた八十年

→ 史料について