小栗上野介にゆかりの深い群馬県高崎市では、その事績や人物像を紹介する記念館の整備が進められていると報じられています。権田村(現・高崎市倉渕町)は小栗が最期の二か月を過ごした土地であり、烏川の水沼河原はその終焉の地です。地元にとって小栗上野介は、単なる歴史上の人物ではなく、地域の歴史と深く結びついた存在といえます。
記念館が新しい試みであるのに対し、この土地の顕彰そのものには、半世紀を優に超える蓄積があります。何が積み重ねられてきたのかを整理しておきます。
「罪なくして此処に斬らる」の碑から
出発点は、一本の碑でした。「偉人小栗上野介の罪なくして此処に斬らる」――この建碑を機会に、それが原動力となって、倉渕村に小栗上野介遺跡保存会(塚越伝三郎会長)が生まれます。保存会は昭和四十二年九月一日、発展的に解消して小栗上野介顕彰会となりました。会長には村長が就き、村ぐるみの組織になります。のちには若い世代によって「小栗研究会」も結成されました。
顕彰会は機関誌『たつなみ』を刊行し、文化財調査委員や郷土史研究家が調査の成果を載せ続けてきました。役員に名を連ねたのは、塚越真一、市川八十夫、市川光一といった、地元で郷土史を調べてきた人たちです。いま小栗をめぐって語られる細かな事実の多くが、この会誌に蓄えられてきました。
調べて、建てて、供養する
顕彰会の活動は、村の中だけで完結していません。小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』は、会員たちが県外まで足を運んだ記録をいくつも書きとめています。
昭和三十年には、会員が館林市法輪寺にある小栗父子の首級埋葬の遺跡を訪ねています。昭和三十一年四月には、自決した塚本まき・ちか姉妹の遺骨を捜して、地元の旧家の案内で竜ヶ尾根沢山の斜面を調査し、小石を積み上げて造られた大小二つの石槨を発見しました。ただし、それは既に発掘されたあとで、中は空でした。姉妹の霊を慰める像が相間川上流「通らずの渕」に建立され、開眼供養が営まれたのは平成五年十二月四日のことです。顕彰会、村当局、村内外の有志ら数十人が集まって供養祭が営まれました。
権田の歩兵として戊辰戦争を戦い、会津で戦死した塚越富吉についても、顕彰会は現地の高郷村(当時)まで調査に赴き、村長・教育長・史談会の協力を得て、田代家墓地の一角に慰霊碑を建てています。除幕には顕彰会員約三十名と地元の人々が参列しました。自分たちの村から出て他国で死んだ者を、百年以上たってから現地に訪ね当てて碑を建てる――そういう種類の活動です。
平成十年、小栗公百三十年祭には、群馬県知事と横須賀市長がそろって東善寺を訪れ、小栗公の墓に香華を手向けています。倉渕村は横須賀市と友好都市の関係を結び、毎年の「小栗ウエルニー祭」には東善寺住職や顕彰会員が招かれています。権田で斬られた人と、横須賀に工場を残した人が、同じ一人であることを確かめ合う行き来です。
展示するものは、すでに土地にある
遺品も、この土地に残ってきました。東善寺の資料館には、小栗一族をかくまった家に礼として置いていかれた直径三十センチほどの青紫色花柄の西洋皿と、長さ約十八センチの象牙の櫛が、いまも保存されています。始祖以来の家宝である信国の名槍も、東善寺に伝わりました。記念館の整備は、こうして散在している証拠を一か所に集めて見せる、という段階の話になります。
開館の時期や具体的な展示内容については、高崎市や顕彰会の公式な発表を確認していただくのが確実です。本サイトの「ゆかりの地」のページでも、権田村や水沼河原など、高崎市内の関連地をあわせて紹介しています。
大河ドラマを見据えた動き
令和九年(2027年)には、小栗上野介忠順を主人公とするNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の放送が予定されています。放送をきっかけに初めて小栗上野介を知る人にとって、現地に整った案内施設があるかどうかは、興味を実際の史跡めぐりへつなげられるかどうかを左右します。会誌や講演会、碑の建立という形で半世紀以上続けられてきた顕彰の蓄積を、訪れた人が一度に受け取れる場所ができるかどうか――記念館の整備が問われているのは、そこだといえます。
典拠:小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』
→ ゆかりの地を訪ねる / 烏川で散った護衛たち / 顕彰のあゆみ