小栗忠順の養嗣子・又一忠道は、旗本・駒井甲斐守の次男です。忠順に嗣子がなかったため、遣米使節の渡米直前に小栗家へ迎えられました。同じころ養女として入った鉞子(忠順の叔父・日下数馬の娘)の将来の夫として、二人で小栗家を嗣ぐべき立場です。処刑されたとき、二十一歳でした。
フランス式歩兵の指図役
又一は幕府講武所の教官であり、小栗らが横浜に開いたフランス語学所の第一期生二十一名の一人でもありました。小栗はのちに横浜の陸軍伝習所を江戸へ移して陸軍所とし、越中島に練兵場を設けます。フランス士官シャノアンやパワーらの指導を受けたこの場で、又一は幕府歩兵指図役頭取を務めました。慶応三年三月には、大坂で開かれた各国公使の会議に、フランス公使ロッシュの通訳として同行しています。
権田村へ土着したあとの慶応四年三月、近隣の博徒らが村を襲ったときには、父子で実戦の指揮を執りました。『小栗日記』にはこうあります。
「自分儀者又一共々家来并歩兵其他村内猟師并強壮之者百人余召連罷出、右人数を五手ニ分……」
百人余を五手に分け、小栗が全体を見、又一が東南の鎮守・椿名神社にある敵本陣へ歩兵を散開させて号令をかけた。伝習所仕込みの散兵戦術が、上州の田圃の中で使われたわけです。戦いは正午に鎮まりました。
高崎へ、そして石上寺
東山道総督府の追捕状を受けて権田村へ来た高崎・安中・吉井の三藩は、実地の検分の結果、逆謀の跡はないと判断していったん引き揚げます。閏四月二日、その三藩の兵に守られて、又一は総督府に直接弁明するため高崎へ向かいました。従ったのは、用人・塚本真彦、給人・沓掛藤五郎、同じく多田金之助、そして権田の領民である塚越新兵衛・利喜蔵・亀之丞――主従七人です。
高崎に着いたのは四日の七ツ時(午後四時)。一行はそのまま、高崎城門東入口付近にある高崎藩祈願寺・石上寺に幽閉されました。石上寺は安国寺とともに総督府の屯所になっていた場所です。警護には高崎藩士・深井順一郎、白井伝蔵、安中藩士・根岸忠蔵、吉井藩士・小林甲子次郎らが当たりました。
五日、総督府から帯刀を差し出すよう命じられ、主従四人の大小刀が取り上げられます。六日の午前中に父・忠順が水沼河原で斬られたことを、又一は知らないまま夜を過ごしました。
「この期に及んで無益の言を言うでない」
閏四月七日の九ツ半時(午後一時)ごろ、高崎藩士・谷口周道が来て「重役の命令によって捕縛する」と告げました。又一は反問します。
「重役とはいずれの重役であるか」
周道が「拙者の舌足らずで申し訳ない。総督府の重役の命令でござる」と言い直したとき、又一はこれが処刑であると察したと伝わります。それでも「然らば」と答えて、何の恐れる色も見せずに縛につきました。
権田の領民三人は牢外に控えさせられ、又一と塚本真彦・沓掛藤五郎・多田金之助の四名が入牢を申し付けられます。まもなく高崎町奉行所の白洲へ引き出されましたが、しばらく待たされただけで何の取り調べもないまま、再び牢屋敷内の処刑場へ引かれていきました。そこには、前日に父を処刑した副監軍・原保太郎と豊永貫一郎が控え、三藩の頭取役員も列席し、見せしめのための見物人も多数集まっていたといいます。
豊永が読み上げた宣告文は、次のとおりでした。
「小栗又一 其方儀父上野介ト共ニ叛状明白ニ付、天誅ニ行フ者也 戊辰閏四月」
「右者共上野介ヲ助ケ叛逆ヲ企候条明白ニ付、天誅ヲ加ヘ梟首セシムル者也」
又一は静かに聞いていましたが、塚本真彦が憤然として抗議しました。
「我等に対する何等の取調べも、又ただ一回の審問もなく叛逆明白なりという宣告は理不尽ではないか」
これに対して又一は、「この期に及んで無益の言を言うでない」と戒めたと伝わります。真彦は、安政条約の批准書交換に際して忠順に従って渡米し世界一周を果たした人物で、フランス語・英語・数学に通じた、忠順のもっとも信頼した用人でした。権田の東善寺には、老母と妻、四人の子が残されていました。
斬首役を断った武士
四人を斬る役は、高崎藩士・堀江蔵太に命じられました。しかし堀江はこれを拒みます。
「わたくしは藩籍士分に列して居ります。真剣勝負を命じられたのであれば、相手が何人であろうとその命に従います。なれど縛り首を討つのは武士の面目にかけて出来ない行為です。その命令には従う訳には参りません」
官軍もこれを押し切れず、結局、足軽の小用喜一郎に命じて斬らせました。四人の首は牢屋敷近くの曝し場に梟首されます。ただし又一の首はまもなく下ろされて首桶に入れられ、強い焼酎に漬けられました。父・忠順の首とともに、首実検のため館林城内の総督府へ送られるためです。
四人の遺体は、権田村の組頭・池田九平と下斉田村の名主・田口十七蔵らが貰い受け、同村根小屋の観音堂に埋葬しました。曝された家臣三名の首も、のちに下げ渡されて下斉田村の墓地に胴体とともに葬られています。
牢外にいた塚越新兵衛・利喜蔵・亀之丞の三人は、処刑のあと一両ずつ渡されて放免されました。高崎の町へ出たところで権田の村民に出会い、そこで初めて、忠順が前日の朝四ツ半(午前十一時)ごろに三ノ倉宿の河原で斬られていたことを知ります。塚越新兵衛はただちに駿河台の小栗屋敷へ走り、留守居用人・武笠祐左衛門に一部始終を報告しました。この経緯は、慶応四年五月の『中外新聞外篇』(巻之三十二、定価一文)にも報じられています。
フランス式の軍事と語学を身につけ、次代の小栗家を担うはずだった又一を失って、家はほとんど断絶の縁に立ちました。忠順の遺児・国子はまだ一歳です。のちに又一の弟にあたる駒井悌四郎が養子となり、わずかな扶持ながら第十三代・小栗悌四郎忠祥として家名の相続が許されました。
典拠:小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年
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