JISEKI

幕府が構想した幻の中央銀行

江戸―京坂間の年間為替取引高、およそ二千万両。小栗が幕府に建議した、もう一つの経済構想です。

兵庫商社よりも前に、小栗はさらに大がかりな構想を幕府に建議していました。全国の金銀為替を一手に扱う、幕府直営の中央集権的な為替所を作るという案です。実現はしませんでしたが、残された建議書――「政府於て御為替所御取建之儀申上候」――からは、幕府の財政をどう立て直そうとしていたのかが、条文のレベルまで具体的に見えてきます。

書き出しはこうです。

金銀之運用も国家大利権之一端に付、政府之御進退に相成可然奉存候

金銀の運用は国家の大きな利権のひとつだから、政府の采配に属すべきだ、というのが出発点でした。ただし小栗は、すぐにこう釘を刺します。制度というものは上下ともに便利な法でなければ行われない、「只政府耳御便利にて庶民に不便利之儀」を強いて行えば騒擾の基になる――と。

遠国奉行・郡代・代官を為替のネットワークにする

当時、江戸と京坂(京都・大坂)のあいだで為替を扱っていたのは、三井や鴻池といった有力な両替商でした。金銀を実際に運ばず、手形のやり取りだけで決済する仕組みで、そこには当然、手数料や運用益が生まれます。小栗の構想は、この役回りを幕府自身が担おうというものでした。

建議書が名指しするのは、御府内(江戸)・京・大坂・伏見・堺、そのほか箱館・長崎などの遠国奉行すべて、および諸国の郡代・代官です。百姓町人から金銀為替の願い出があれば元金を受け取って手形を渡す。これを全国の幕府直轄地で行えば「金銀運用之権自然政府江帰シ可申」というわけです。

ねらいは手数料収入だけではありませんでした。江戸・京・大坂・堺は商人の組合で為替が自由に動くが、それ以外の遠国には「金銀為替之道不開場所」がある。正金銀を持ち歩けば途中で掠奪される心配があるから、遠国と取引したい商人も二の足を踏んでいる。為替の道が開ければ「僻遠之地江も右商人共罷越候に付、其地之産物捌ヶ方も宜敷相成候間、自然田畑も相開グ可申」――僻地にも商人が入り、産物がさばけ、田畑も開ける。金融インフラを地方開発の手段として見ていました。

数字で押す建議書

建議書の特徴は、主張のひとつひとつに数字が添えられていることです。

  • 手数料は民間より安く設定する。商人の組合は江戸から京大坂へ金百両につき銀四十匁から六、七十匁を取っている。政府の為替所は金百両につき銀三十匁から五十匁に定めるのがよい。安ければ「必相競ひ願出可申」――商人は必ず先を争って願い出る、という読みでした。

  • 取引高の試算。上方から江戸へ送る酒は年に四十万駄から六十万駄。酒十駄で金六十両の相場だから五十万駄で金三百万両。これに絹布・米穀などを加えれば、江戸と京大坂近辺の取引は年々金二千万両前後。歩合を金百両につき銀三十匁としても、四十万両の益が政府に入る。

  • 遊金の運用。江戸で朔日に受け取り十五日に大坂で渡すなら、その間の正金は遊金になる。箱館・長崎なら五十日もかかる。年二千万両の為替があれば常時二百万両ほどが遊金となり、これを確かな引当物を押さえて貸し付ければ、年々二十万両余の利息になる。

  • 預金と貸付の利ざや。預かり金は金四十両ないし五十両につき一ヶ月銀十五匁の利息を付け、貸付は金二十五両につき一ヶ月銀十五匁で回す。

民間の破綻事例も、実名入りで引かれています。両三年前、京都の両替渡世・伊勢藤という者が見込み違いで突然破産した。巻き込まれて江州商人の外村某が二十万両、京都商人の丁子屋銀次郎が十四、五万両を失い、損失の総高は百万両に及んだ。政府の為替所ならそうした懸念はない――という論法です。

取り付けを恐れる ― 建議書の歯止め

この建議書でとりわけ目を引くのは、自分が作ろうとしている機関の危険を、自分で書き込んでいる点です。手形が正金銀より便利なので、両三年のうちには二、三百万両が手形のまま通用するようになり、遊金は五百万両にのぼるだろう、と小栗は見込みます。そのうえで、こう続けました。

右游金之内政府御勝手之御融通に御振向ヶ等に相成候ては、正金渡之節差支、終には流弊相生じ、御為替所潰れ候様之事出来可申哉掛念仕候間、厳重之御処置御坐候様奉存候

預かった遊金を幕府の台所の穴埋めに回せば、正金を渡す段になって行き詰まり、やがて為替所そのものが潰れる。だから厳重な歯止めを設けてほしい、というのです。発券機関の資金を財政赤字の補填に使わせない――兌換を維持するための原則が、幕末の建議書にすでに書かれていました。

実施の段取りも慎重です。「最初より諸国郡代御代官ニ而取扱候事、余り手広過も容易ニ被行申間敷候間、先差向御経験之ため、遠国奉行限ニ而御手始可然」――いきなり全国の郡代・代官に広げるのは手広すぎるので、まず遠国奉行だけで試してみるべきだ。運営も、役人は金銀の出入りと手形の奥印だけを扱い、実務は身元の確かな町人・百姓を選んで宛行を与えて任せる、としています。百姓町人が直接役所へ願い出るのは「手重ニ相成好不申」からでした。

預金業務についても、旗本・御家人が長年の奉公で得た褒美を手元に置いたまま「沈金」にしていること、火災や盗賊で失う例が少なくないこと、孤児や寡婦が商売も貸付もできず坐食して没落することを挙げ、そうした金を預かって利息を付ければ「御三家并ニ宮門跡之貸附所并坐頭等、市中に格外高利之金子ァ貸シ候者も相減シ可申」――高利貸に頼る者を減らせる、と説きました。

握り潰された建議

この構想は、既存の両替商にとって死活問題でした。実現しないまま終わった理由について、『小栗日記』の編者・本多夏彦氏は、当時の両替商がすでに預金・貸付・為替・振替・手形発行といった金融業務を営んで「結構間に合っていたから、強て官業を興して民営を圧迫するでもないという上司の姑息意見から、上野介の提案が握り潰され、本文の資料も日の目を見ずに終ったものであろう」と述べています。

この建議書そのものが、長らく世に知られていませんでした。権田村周辺では、小栗の死後に遺品や文書の多くが散逸し、菩提寺の東善寺にさえ文献が残らない状態でした。本多氏は、その地方から出てくる反古のなかからこの一通を拾い上げ、二十年後に別の場所で発見した『小栗日記』(群馬県文化財)と筆跡を見比べて、小栗の自筆と考えられる、としています。紹介の一文が書かれたのは昭和三十六年(1961)でした。

もっとも、この一件が小栗と三井の関係を断ち切ったわけではありません。むしろこの少しあと、小栗は三井の内部事情に深く関わっていきます。

典拠:群馬県史料集第七巻『小栗日記』本多夏彦編(「小栗上野介の為替所取立建議」所収)

→ 三野村利左衛門との出会い → 兵庫商社