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パナマ地峡を鉄道で越える

大陸横断鉄道がまだない時代、パナマ地峡を蒸気機関車で横断。日本人による最初期の鉄道体験のひとつです。

サンフランシスコを発った使節団の次の目的地はワシントンです。しかし当時、大陸を横断する鉄道はまだありません。太平洋側から大西洋側へ抜けるには、船で中米まで南下し、パナマ地峡を陸路で横断してから、あらためて別の船に乗り換えるという行程が必要でした。パナマ運河が開通するのは、これより半世紀以上あとのことです。

随行者の日記は、着いた土地の印象をこう書きとめています。「此パナマは、中亜墨利加国ニウグレナダ国に在り。赤道北八度ニシテ、熱気甚シク、此地山多ク、島多ク、草樹繁茂、毒蛇悪獣多ク」。赤道から北へ八度という位置まで正確に記されています。

運河はまだ掘れなかった

同じ日記には、運河の構想にも触れた一節があります。この地と大西洋岸のアスピンウォールとのあいだを「山を掘り穿て、東西の水を通じ通路となさん」としてイギリスとアメリカが力を合わせて掘ろうとしたが、大きな山脈が通っていて成し難い。だから蒸気車の路を敷いたのだ――と。運河が挫折した代わりに鉄道が敷かれた、という経緯を、一行はその場で聞き取っていました。

七十余人が乗った蒸気機関車

パナマでポーハタン号を下りた一行は、この鉄道で地峡を横断しました。乗車したのは七十六名。日本を発ったときより一名少ないのは、カリフォルニアで病気になり帰国した者がいたためです。

なお、彼らが蒸気機関車に乗った最初の日本人だという説は、正確ではありません。おそらく最初はジョン万次郎で、一八四九年十月、ゴールド・ラッシュのさなかの西部へ向かう途中に乗っています。使節団はそのちょうど十年後。ただし、七十人以上の日本人が団体で乗ったのは、むろん初めてであり、「公式に」乗ったのもこれが最初でした。

そのときの驚きを、副使・村垣淡路守は日記にこう記しています。

やがて蒸気も盛んになれば、今や走り出でんと、かねて目もくるめくやうに聞きしかば、いかがあらんと……案じけるうち、すさまじき車の音して走り出でたり。……車の轟音、雷の鳴りはためくごとく、左右を見れば、三、四尺の間は草目も縞のやうに見えて、見とまらず

雷が鳴りはためくような音。窓の外では、三、四尺ほどのところにある草までが縞のように流れて見え、目で追うことができない。駕籠と馬の速度しか知らない幕臣たちが、初めて味わった「速さ」の記録です。

団員の加藤素毛は『二夜語』に列車の図まで描きました。その図を見ると、機関車の先頭に二本の高いポールが立ち、先端に日章旗と星条旗がひるがえっています。日記の欄外には、こう書き添えられていました。

日本使節の蒸気には、日の丸の幕を新に多く調へて走りし由、此事話の中に書き加ふべし

日の丸の幕を掲げた蒸気機関車が、このときはじめてアメリカ大陸を走ったのです。

誰がこの鉄道に金を出したのか

一行のなかで、景色や速さではなく費用と資金調達の方法を書き留めた者がいました。森田清行です。その日記には、こうあります。

蒸気車ならびに鉄路、総入用七百万ドルラル。合衆国中に発起人有之身元のある者よりドルラル借り受け出来、年に借高割戻す仕方の由、カビティン・ガルナイの話

総工費は七百万ドル。合衆国中に発起人がいて、身元のたしかな者から金を出させ、年ごとに出資額に応じて割り戻す――案内役の士官から聞き取った、株式会社そのものの説明です。当時のアメリカでは会社設立がひとつのブームで、なかでも鉄道に人気が集中していました。明治に入って日本でも鉄道の株式募集がブームになりますが、この点、東西で軌を一にしています。

使節団はこの旅で、サンフランシスコの造幣局も見学しています。森田の『亜行日記』は、その工場が「凡て人力を費さず、蒸気器械を用ひ、水は革製の〇〇〇(ポンプ)にて、二層三層四層の楼上へひき、火を用ゆるには凡てガスより取る。便利迅速いはん方なし」と記しました。機械が一分間に七十二個の貨幣を打ち出すスピードに、団員たちは感心しています。速さを生む機械と、その機械を据えるための金の集め方。この二つを続けざまに見ています。

大西洋岸へ

大西洋岸のアスピンウォール(現在のコロン)に着いた一行は、そこで待ち受けていた迎艦ロアノーク号に乗り移りました。長さ三百十六尺、幅九間、船将以下の乗組員五百八十人、大砲五十四門を二段に備えた軍艦です。船はカリブ海を北上し、キューバを望み、フロリダ岬を遠くに見ながら東海岸をさらに北へ。一八六〇年五月十四日、使節団はついにワシントンに到着します。

後年、小栗は勘定奉行として、株式会社という仕組みをいち早く日本に導入しようとします。兵庫商社の建議書に現れる「コンペニー」という語の背後には、地峡を越えるわずかな時間のなかで聞き取った、この鉄道の仕組みがあったといえます。目に映った蒸気機関車の速さだけでなく、それを動かしている仕組みそのものに関心を向けたところに、小栗という人の関心の向け方がよく表れています。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』

→ ワシントンでの大統領謁見 / 日本最初の株式会社、兵庫商社 / 造幣局で見たもの